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一樹の蔭、一河の流れ

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一樹の蔭、一河の流れ
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文芸サイト「文学夢街道」管理人の杉山武子です。
実りある60代をめざして、読書・映画・旅行など日々の活動から思うこと感じることを、水曜日に書いています。
ブログ名は平家物語の「一樹の蔭に宿るも前世の契り浅からず、同じ流れにむすぶも他生の縁なほ深し」に由来しています。どうぞよろしく! 
(メールマガジン【僕らはみんな生きている!】で配信中)
 
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二人のばあや

2012/02/01 09:50
わたしには二人のばあやがいる。一人はもうすぐ87歳になる実母、一人は85歳になったばかりの義母さん。男性の視点からの呼称と思われる老女とか老婆という言い方には抵抗を感じるので、人に話すときは「ばあやさん」と言っている。二人とも20年前に伴侶を亡くして以来、一人暮らしをしてきた。

どちらも第二次世界大戦中に十代後半を送った世代なので、戦争体験がある。義母さんは17歳のとき、隣家に焼夷弾が直撃し、その破片が顔に当たり、大けがをされたそうである。幸い近くに軍の医療班が駐屯していて、顔に傷が残らないように若い外科医が手術してくれた、今でも感謝している、と。

偶然ではあるけれど、二人には共通点が多い。終戦時に二十歳そこそこだったので、結婚は戦後になってから。一方、当時二人よりたった2〜3歳年長の女性たちは既婚者が多く、出征した夫が戦死して未亡人になった人たちが大勢いる。男女とも、少しの年齢差で生死の明暗が分かれた世代である。

またどういうわけか二人とも、先妻を病気で亡くした子持ちの男性と初婚で結婚している。しかもどちらも長男なので、当時としては当然のごとく親と同居し、扶養している。高度経済成長時代には「カー付き婆抜き」なんて言葉が流行したが、カーは無くても婆は付いていたわけである。

兄弟や親類縁者が近隣にいて、盆暮れだけでなく親類の出入りが多いのも共通していた。そのうえ、家族制度の名残りである三世代同居の家族構成と、家族の中に上下関係のある封建的な雰囲気が色濃く残っていた時代だった。結婚しても、夫婦関係以前に、嫁・姑の関係に強く縛られた世代である。

舅・姑のみならず小姑、それに先妻の2歳の子までいた大家族に、後妻として入った実母。先妻の子であっても立派に育てると覚悟して嫁いだものの、その子の育児権は祖母である姑にがっちりと握られており、継母のわたしは子育てに何の口出しもできなかったと、老いてもなお母は悔む。

当時の女性の大半がそうであったように、実母は専業主婦だった。衣食住には別段苦労はしなかったと言うけれど、外出にはいちいち姑の許可をもらい、お金もなかなか自由にはならず、先妻の子と自分の産んだ子に差があってはいけないと、相当な気遣いをしたらしい。

小学1年生のある日、母と祖母が何か言い合いをしていた。悔しそうな顔をして夫婦の部屋に戻った母が、わたしがそこにいるのも構わず「くそババア」と言い放ったとき、心底ギョッとした。仲良くしてたのはウソだったのかと、そのとき嫁姑の深遠な関係にうっすら気付いてしまった。

母は35年仕えた姑を自宅で看取ったが、祖母の最期は世話をした母に対する感謝の言葉と「南無阿弥陀仏」だったという。父に嫁いできたのに、姑とも一つ屋根の下で人生を共にしてきたのは何かのご縁であり、母も報われた気持がしたのではないかと思う。

義母も結婚以来、そばに寄られただけで体が震えるほど厳しい姑さんに仕えた思い出を、くり返し話される。老いて後の思い出は、辛い、悲しい思い出のほうが強く残るのだろうかと、二人のばあやの話を聞きながら思う。「でもおかあさん、楽しいこともあったでしょう? それを聞かせてよ」とわたし。奥の引き出しには、ちゃんと楽しい話が詰まっているからである。

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人参畑の女傑さん

2012/01/25 09:13
昨年末から元旦にかけて福岡市で過ごしたが、初詣は娘夫婦と合流して博多区にある住吉神社に出かけた。その近くの博多駅前四丁目に「人参畑塾趾」と書かれた大きな石碑が建っている。博多駅界隈は40歳で転職した会社のビルがあった場所で、いま歩いてもいろいろなことが思い出されてくる。

江戸末期、ここ一帯は福岡藩の薬用人参畑があり、そこに「興志塾」(通称「人参畑塾」)という私塾があった。この塾を開設したのは「人参畑の婆さん」と呼ばれた高場乱(たかば・おさむ)という名の眼科医で、儒学者であり教育者だった。

高場乱は天保2年10月8日(1831年11月11日)筑前国博多瓦町で高場正山の二女として生まれた。高場家は代々眼科医であったという。正山に男児がおらず、幼名は「寿命」とつけられ男子として育てられたが、幼いころから知力・胆力に優れていたそうだ。

10歳のとき藩に受理されて正式に元服し、乱世を治めるよう「乱」と書いて「おさむ」と名付けられ、以後男装して帯刀した。16歳のとき結婚したが、夫が凡人だったので自分のほうから離縁し、以後、茶筅髪(ちゃせんがみ=未亡人スタイル)に結って独身を通している。

20歳のとき漢学を学ぶため亀井南冥の門、亀井塾に入門。塾は身分や性別を問わない学風だったといい、福岡藩の支藩の秋月藩にはすでに亀井塾で学んだ男装帯刀の女性儒学者がいたという。乱はのちに養子をもらったが、自分を「父上」と呼ばせたそうだ。

20歳で家業の眼科を継ぎ、40歳で人参畑跡に眼科医院兼「興志塾」を開き、以下のような塾則を作っている。乱は小柄な体つきながら声は太く、眼光鋭く、塾生たちが悪さをすると火吹き竹などで容赦なく叩く。また、はかま姿で馬に乗り、武術にもすぐれ冬でも単衣の重ね着で平気だったという。

 一、親友の吉凶、まき割り、水くみのほかは夜間外出禁止。
 一、寝て本を読むな。夜は別。
 一、講義のさい、雨具禁止。
 一、室内であばれるな。庭ならよい。
 一、変童(ホモ)禁止。
 一、酒はよし。ただし酔ってはならぬ。
 一、田畑の物を荒らすな。

猛者の集まりだった塾生たちのなかに、明治6年、乱42歳のとき、たまたま目の治療に訪れた19歳の頭山満が加わった。頭山は後に玄洋社を率いる。明治新政府に対する旧武士の不満や反発が強い当時、塾生たちは次第に板垣退助の民権運動に共鳴してゆく。

明治10年「福岡の変」や自由民権運動に関わった多くの塾生が命を落としていったが、それを乱はどんな気持ちで見ていたのだろうか。特に大隈重信暗殺に失敗し自刃した塾生来島恒喜の死に衝撃を受け、病に倒れ、翌明治24年3月31日、一切の治療を拒み59歳で亡くなったという。

博多崇福寺の玄洋社墓地にある乱の墓碑は、勝海舟筆だという。堂々たる「人参畑塾趾」の碑にはそんな女傑伝があったのかと、さっそうとOLの行き交うビル街に変貌した人参畑を歩きながら、思うことだった。

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憧れのムーンボウ

2012/01/18 09:43
昨年の日本にはたくさんの不幸が生じた分、ことしこそは良いこと楽しいことがたくさんありますようにと、三が日にはお天道様や神仏や自分の信じるものに、心からの祈りを捧げた人が多かったことでしょう。私もまた思うことの多い元日でした。

そしたらさっそく先週、とても嬉しいニュースがありました。沖縄県石垣市で、日本では珍しい月虹(げっこう)が7日夜に見られたというのです。その証拠になんと、国立石垣天文台の研究員花山秀和さんの撮影された映像がテレビでも紹介されました。

花山さんは「これまで写真で見たことはありましたが、肉眼では初めてです。白くぼんやりとしていて神秘的でした」とインタビューで語っていましたが、日本で撮影されたのは初めてではないかということです。憧れの月虹を映像で見ることができて、わたしも感動しました。

月虹は別名ムーンボウまたはナイト・レインボーとも呼ばれています。月の光が大気中の水滴で屈折して虹となって見える珍しい現象で、昼間の虹に比べると光は弱いものの、月が顔を出した30分ほど見られたそうで、幻想的でしっとりした美しさに満ち満ちていました。

この月虹がよく見られることで知られているハワイでは、昔から「夜の虹はこの世で最高の祝福」のしるしで、先祖の霊が癒しや知恵を与えるために現われる縁起の良い自然現象と考えられてきたそうです。ネットで月虹やムーンボウで検索すると、たくさんの写真を見ることができます。

虹といえば昼間の夕立のあと、太陽に背を向けたときに前方に出現することが多いですが、最近はあまり見ていません。いまは仕事をしていなくて家にいることが多いので、虹に出会うチャンスをたくさん失っているのでしょう。

以前、完全な半円形をした虹を一度だけ見たことがあります。虹は1本だけ見えるのが普通ですが、高校生のときダブルレインボーという、2本並列した虹を見ました。また上空から見える虹には、環状になったサークルレインボーがあるそうです。

石垣島の月虹は真冬に出現しましたが、歳時記では虹は夏の季語になっています。夕立のあとに現われることが多いからでしょうか。虹、朝虹、夕虹、二重虹(ふたえにじ)などの語があります。また朝虹は雨、夕虹は晴れといわれているそうです。

お正月早々憧れのムーンボウを見ることができたので、今年はよいスタートになりました。月の光、太陽の光、雨、風、人間は自然からたくさんの恵みを受けているのに、現代人はそのありがたみを忘れ、人智を超えた自然現象に対する畏怖を忘れているのかもしれません。

  ゆけどゆけどゆけども虹をくぐり得ず  高柳 重信

 
  山刀伐(なたぎり)に虹かかれよと虹の橋  加藤 楸邨

  虹二重神も恋愛したまへり  津田 清子

   ※引用文献 第三版『俳句歳時記』夏の部 角川文庫
         平成12年6月 540円

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谷口巳三郎先生逝く

2012/01/11 09:13
これぞ「信念の人」と思うひとが二人いる。一人はタイで「21世紀農場」を開設・運営されている谷口巳三郎先生、もう一人はアフガニスタンで医療や灌漑事業に邁進されている中村哲医師である。谷口先生は熊本県出身、中村医師は福岡県出身なので、鹿児島在住の私は直接話を聞く機会が割とある。

新年早々、その谷口巳三郎先生が亡くなったとの連絡があった。ご自身の住まいでもある「21世紀農場」で大晦日に亡くなったという。信念の固まりのような、88歳の立派な生涯だったと思う。谷口先生のことはこのメルマガで下記の2回、紹介している。

2006年7月「今、君の瞳は輝いているか」
http://bronte.at.webry.info/200607/article_3.html

2008年10月「21世紀農場 谷口巳三郎先生に聞く」
http://bronte.at.webry.info/200810/article_3.html

谷口先生は退職後、59歳で単身タイに渡り、以来農場に適した土地を探し求め、退職金を投げ打ち、現在の場所に「21世紀農場」を開かれた。以来タイの青少年だけでなく日本の若者の研修も受け入れてこられたが、タイでの活動開始からちょうど30年目、その大晦日に亡くなったことになる。

単身でタイへ渡られたのは、タイの若者への農業指導や青年教育をするのが目的で、誰かに頼まれたわけではないという。個人の意思というか信念に基づいた行動で、しかも奥さんは日本で募金活動に奔走しながら「21世紀農場」の活動を支えて来られた。最初からタイに骨を埋める覚悟の活動だった。

熊本県菊池市で9日行われたお別れの会に参列した人の話では、谷口先生は亡くなる前日、つまり12月30日に片道3時間ほどかかる悪路を自分で車を運転し、農場の元スタッフの結婚式に参列されたのだという。往復運転しての旅は、そうとう体に無理があったのではないかと想像する。

新聞記事には「老衰により」と書いてあったが、前日まで普段通りに活動されていたことを知り、やっぱり谷口先生らしいと思った。亡くなる直前の29日まで一緒に行動されていたという日本人の方は、訃報を聞いて農場に駈けつけ、農場で行われたタイ式のお葬式を見届けられたという。

「世の中にこんな人がいるんだ」と、その筋金入りのボランティア哲学に度肝を抜かれたことから谷口先生を知った。普通だったら外国の貧しい人々のことなど、興味ない、知らなかったで済ませるところを、自ら近づき、困っている人がいたら手を差し伸べる、それが谷口先生である。

 熱帯サバンナ地帯のやせた傾斜地に不法入国者として、マジョリ
 ティ−(注:多数者)の中で生きていかねばならないタイ北部の
 少数高地民族とは一体、何の因果でこの様な21世紀の市場主義
 経済の中に鍬1丁、山刀一本で竹の壁、竹の床、草の屋根、井戸
 は掘れぬので谷川まで水汲みに…。今日の日本には想像もつくまい。
 (谷口先生のエッセイより)


山伝いに移動して焼き畑で生活してきた少数高地民族は、現代の法律では不法入国者であり、タイ語を話せずIDカードも持っていない。そのため学校にも行けず、若い娘は売春婦となりエイズに感染して捨てられる。またある人は危険な麻薬の運び屋になる。そんな彼らに自立のための農業を指導してこられたのが谷口先生である。

普通は60歳ぐらいで退職したら悠々自適の老後を送るところを、谷口先生は定年後から新しいスタートを切り、あえて険しい道を選択された。遺言に従いメコン川に散骨されたそうだ。「斃れて後已む」(たおれてのちやむ)とは、谷口先生にこそぴったりの言葉である。

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80年前の巴里(パリ) 

2012/01/04 10:12
1931年から1932年にかけて林芙美子はパリにいました。「放浪記」を書いて一躍人気作家となり、その印税でパリに行ったのです。そのとき芙美子はまだ28歳の若さ。日本に夫・手塚緑敏と母を残しての渡欧は、宿命的な放浪者であった芙美子にとって、次の飛躍を考えての必然だったのかもしれません。

1931(昭和6)年11月4日、東京を出発した芙美子は下関から釜山へ渡り、さらに安東から長春、ハルビン、モスクワを経由して、23日早朝、パリのノルド(北)駅に到着します。そこから車で5個の荷物と共に最初の投宿先、ホテル・リオンに落ち着くという長い旅程でした。

飛行機で十数時間でパリに着く現代とは違い、出発してから韓国・中国を経てシベリア鉄道経由でフランスへ向かい、目的地のパリ到着まで19日間かかっています。しかもこの年の9月は満州事変が勃発したという状況下にあり、現代の海外旅行とは段違いに大変な道中だったことでしょう。

芙美子は着いたその日から日記と小遣い帳をつけています。それによればパリまでの旅費は379円25銭で、当時の日本の公務員初任給75円で換算すると約5ヵ月分に当たります。芙美子は210アメリカドルを持参し、パリへ着くとすぐ日仏銀行に行き、4,350フラン分を両替して預けています。

パリでの1ヵ月の生活費を部屋代・食費・雑費等で810フランと予算を立てていますから、両替したフランは5ヵ月分に相当します。芙美子のパリ日記と小遣い帳を見ると、当時の生活をありありと想像できます。その日記の1932年1月1〜3日にはこう書いてあります。

 1月1日(金曜日)
 千九三十二年の元旦だ。
 起きたらやはり巴里だつた。オキシフルで口を洗つて、高い窓から
 四方拝をした。巴里にしては、とてもいゝ天気だつた。朝、バルザ
 ックの「ことづけ」を読む、バルザックも案外甘さのある男だ。ひ
 るからオウダンと云ふ東洋ビイキの仏蘭西人の家へ行く。(略)面白
 くなくて途中出る。サンミツシヱルでシネマを見る。(略)
 ──巴里に四十日私は始めて自分の影を見た。元気で仕事に野心を
 持つ事だ。朝、森本氏と田島氏来訪。

 1月2日(土曜日)
 まだお正月だ、──(略)
 仕事をしたい気持ちでいつぱいなのだが、──夕食はフランス飯屋
 へ行つた。スープにキモに、ほうれん草にビスケツト、外山氏と別
 かん定でたべて分かれた。

 1月3日(日曜日)
 森本氏来訪いつしよに出て、(略)夕方サンミツシヱルで別れて、一
 人でかへる。とてもにぎやか、夜店が沢山並んでゐた。靴下と靴が
 一足買ひたい事が、理想なのだが、ぜいたくな気持ちかな。かへり
 ダンフヱルの公園のそばで、風琴ひきの唄をきく。室内よりも外が
 いゝと云ふ事は何と云ふかなしむべき事なのだらう。
 

またこの日記帳の空白ページに、芙美子はちょうど80年前、1932年のパリの空の下で一人新年を迎えた心境を記しています。芙美子の気宇壮大な心ばえにあやかり、ここに紹介して新年の言葉に代えたいと思います。

 一九三二年の譜

 
 太陽の心もて我にうれいなからしめよ
 窓をあけて私は巴里の空を見る
 苔むした窓々から正月の唄が流れ
 私の部屋の中には、去年のまゝの
 すがれたミモサの花が、金に光つてゐる
 私は思はず双手を合掌して
 何にともなく祈つた
 遠い日本の皆が元気でゐますやうに──
 あの雲のながれ
 あの陽の光だけは
 日本のみんなを
 知つて来たの 
 だらう。
 

  ※参考 今川英子編『林芙美子 巴里の恋』中央公論社刊
      2001年初版 1,900円

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若き日の光源氏の世界

2011/12/21 02:16
いづれのおほんとき(御時)にか、にょうご(女御)かうい(更衣)あまたさぶらひたま(給)ひけるなか(中)に、いとやむごとなききは(際)にはあらぬが、すぐれてとき(時)めきたま(給)ふ、ありけり。

たいていの人が知っているこの有名な出だしは、『源氏物語』五十四帖のはじまり「桐壺」の冒頭部分である。それが日本女性の書いた世界最古の恋愛小説だと知ったのは中学1年生の時のことで、それを教えてくれたのは、クラスでも一番の読書家とみんなが認めていたF子ちゃんだった。

放課後の図書室で本を読んでいるとF子ちゃんがやってきて、私の目の前に大きな本をバン!と置き、「これ読んだ?」。それは『源氏物語』だった。「読んでない」と首を振る私に「これを読まないうちは恋愛する資格無いって、姉ちゃんに言われた」とF子ちゃんは言うのである。

姉さんのいるF子ちゃんは、妹しかいない私に比べると数段おませだった。恋愛に関する忠告も、きっと姉さんの影響だったのだろう。でもすでに小学校以来初恋の人がいた私は、F子ちゃんに反発したい気持で逆に『源氏物語』から遠ざかった。

本格的に『源氏物語』の一部を読んだのは高校生のとき。「帚木(ははきぎ)」の中の「雨夜(あまよ)の品定め」と、年下の光源氏を深く愛していた六条の御息所(みやすどころ)が、自分を差し置いて夕顔と愛し合う源氏の前に物の怪となって現われ、嫉妬のあまり生霊となって夕顔を襲い死なせる「夕顔」の巻だった。(夕顔の死は六条の御息所のせいではなく、単に物の怪の仕業という説もある)

そんな『源氏物語』を与謝野晶子の現代語訳で読んではきたが、虫食い的にあちこちをかじってばかり。今度こそ最初からちゃんと通して読もうと、この秋からゆっくりと読み進めている。その折もおり、鶴橋康夫監督映画「源氏物語―千年の謎―」が公開され、観に行った。

『源氏物語』を原作にした映画は10年前にも「千年の恋  ひかる源氏物語」が上映されたが、気が進まなくて観なかった。今回は「物語を書いた紫式部の世界」つまり現実と「物語の中の光源氏の世界」が並行して進み、その間を陰陽師・安倍清明が行き来するという二部構成になっている。

原作は高山由紀子著『源氏物語 千年の謎』角川書店刊。映画は源氏の少年時代から20代半ばまでが描かれ、登場人物も絞られて人間関係も分かりやすい。また時の権力者藤原道長が紫式部に命じて「源氏物語」を書かせ、紫式部は道長への叶わぬ愛を物語の中に綴ってゆくという内容になっている。

千年の謎という割には、肝心の謎解きは不明のままで終わるし、義母藤壺の出産と源氏の正妻葵の上の出産時期が逆だったりなど原作と違う所もあるが、人物像がくっきりとしている。特に紫式部役の中谷美紀さんと六条の御息所役の田中麗奈さんが、役にぴったりはまっていた。

この映画は早くに母を亡くした源氏が、義母の藤壺への思いを断ち切れずに正妻・葵の上だけでなく、六条の御息所、夕顔と、愛を求めてさまよう心情が描かれており、単なるプレイボーイではないことが見て取れる。映画は『源氏物語』最初の十帖ほどを扱っており、衣装も美しく、源氏物語入門として観るにはお薦めの映画だと思う。
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4つの窓 

2011/12/14 00:07
◆以前ある人から、人間の心には「4つの窓」があると聞いたことがあります。それは「明るい窓」「盲目の窓」「隠された窓」「暗い窓」で、人間の心を4つの窓に表現しているのです。これを考案した2人の名前から「ジョハリの窓」と呼ばれていて、心理カウンセリング等に応用されているようです。

もう少し詳しく説明すると、「明るい窓」というのは、自分も他人も知っている面で、例えば背が高いとか低いなど。それの対極にあるのが「暗い窓」で、自分も周りの人も気づいていない面です。これは埋もれている才能や無意識な領域、抑圧された部分などになります。

「盲目の窓」は自分には分からない、見えていないのに、他人はよく知っている面で、酔っ払うと笑い上戸になることとか。最後の「隠された窓」は、自分は知っているが、他人には知らせていない、あえて見せていない面で、人に隠し事をしていることなどです。

この4つの窓を考えた時「明るい窓」が一番大切で、外に向かって大きく開いていることが最も理想的だといえるでしょう。人は誰しも自分を理解してもらいたい、自分という人間を認めて欲しいと願っているものです。しかし実際には相手から誤解されたり、なかなか思うように分かってもらえないことがあります。

それはその人が他人から理解してもらおうとする場合、まず自分のことがよく分かっていなかったり、自分の心を相手に見せようとしない場合が多いからで、例えば「あなた、自分のことを言いなさいよ。私は絶対に教えないけど」という態度では、誰もその人に話をしてくれないでしょう。

お互いにコミュニケーションを取ろうとする時、相手の見えない部分つまり「暗い窓」や「隠された窓」が前面に出てその面積が大きければ、打ち解けた話し合いなどできないものです。相手の人となりがわかる「明るい窓」がこちらに向いて開いていてこそ、安心して話し合いもできるというものです。

これはコミュニケーションをうまく取るための技術として、自分の「明るい窓」をどれだけ大きくして、いかに他の3つの窓を小さくしていくか。つまり自分が自分自身のことをキチンと分かっていることが、最も大切だということになります。

自分はどういう人間で、どういう価値観を持っていて、そして人からどういうふうに見られているのか。それがよく分かっていないと、相手を理解する力に乏しく、相手から理解されるのも難しいということなのでしょう。では、自分の心の「4つの窓」を知るにはどうしたらいいのでしょうか。 

その方法は、4つの窓それぞれに自分で思いつく限りの当てはまる項目をあげて、例えばそれぞれ10個ずつと決めて紙に書いてみるそうです。すると自分で自分のことがまだよく整理されていないことがわかったり、隠された窓の部分にたくさんの項目が集まって驚いたりすることがあるかもしれません。

「4つの窓」にこだわって、自分のこういう一面、ああいう側面を一つ一つ書き取っていくと、そこから案外自分の心の構成が見えてくるかもしれません。2011年も終わりに近づいた今、特に自分の「隠された窓」を大掃除して、つまり小さくして、その分明るい窓を大きくしたいなと思っている次第です。

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