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一樹の蔭、一河の流れ

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一樹の蔭、一河の流れ
ブログ紹介
文芸サイト「文学夢街道」管理人の杉山武子です。
実りある60代をめざして、読書・映画・旅行など日々の活動から思うこと感じることを、水曜日に書いています。
ブログ名は平家物語の「一樹の蔭に宿るも前世の契り浅からず、同じ流れにむすぶも他生の縁なほ深し」に由来しています。どうぞよろしく! 
(メールマガジン【僕らはみんな生きている!】で配信中)
 
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早春の中欧をゆく(2)ブダペストからウィーンへ

2012/05/16 01:48
ハンガリーという国の名前を知ったのは小学生6年生のとき。器楽クラブで練習した曲がブラームス作曲「ハンガリー舞曲第5番」だった。クラシック音楽が好きになったのはそれ以来で、ハンガリーはリスト、レハール、コダーイ、バルトークなど多くの有名作曲家を輩出している。

ブダペストに2泊とはいえ、1泊目は夜の12時着だったので、観光ができたのは翌日の1日のみ。つい1週間ほど前の3月中旬は、最高気温が10度程度と真冬並みの気象情報だった。ダウンコートを持って行ったが、それも不要なくらい暖かく、行く先々の観光地にはいろんな国の人々が集まり早くも賑わっていた。
  ※写真の上にカーソルを置くと説明が表示されます。

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ハンガリーの食に関しては何も予備知識がなかった。ホテルはビュッフェ式の朝食で、卵料理は具材をいくつか選んで頼むと調理してくれた。パン数種と付け合わせのポテトやトマト、野菜サラダをしっかり食べた。何といっても旅は体力勝負。どこへ行っても食欲だけは落ちないのが私の取り柄だ。

昼食はドナウ川に浮かぶ船上レストランで、名物のグヤーシュスープをいただいた。午後の自由時間は最初に市民の台所といわれる中央市場へ行ったが、現在はすっかり観光客相手の市場になっているとのこと。1階は食料品が主で、2階に土産物店や軽食の取れる店が並んでいた。
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街歩きの途中でお茶をしようということになり、ある有名なカフェをめざして行った。天気がいいので外のテーブルで皆のんびりとお茶の時間。私たちもメニューの写真を見てそれぞれ注文したが、甘くてそのうえ量が多くて、半分も食べられなかった。これで1,500円ぐらいなので結構高い。(写真のスイーツとコーヒーのセット)
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ブダペストでは車が朝夕には渋滞するぐらい多く、地下鉄も発達し、マーケットには野菜も肉類も豊富に並んでいた。町の中心をゆったり流れるドナウ川のように人々の表情も柔らかで、どこを歩いても建物が美しいだけでなく、道路も散らかったりしていない。しかし地方には職が無く国家財政は赤字のためユーロは導入されておらず、通貨はフォリントだった。

夕食はホテルのレストランで全員同じメニューだ。飲み物を各自注文して一同乾杯。野菜サラダ、スライスビーフ、最後のデザートにスポンジケーキが出た。おいしいけれど甘いし、量が多くて半分も入らない。やっぱり西欧の人とは胃袋の大きさが違うようだ。
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翌日はウィーンへ行く日。翌朝8時にホテルを出発して、ブダペスト東駅からウィーン西駅まで約3時間の特急列車の旅だ。車窓風景を楽しみながら、ハンガリーを西へと横断した。高い山というものがなく、途中、なだらかな平原に風力発電の風車が回っていた。100基以上はある壮観な眺めだった。否応なしに原発のことが頭をよぎった。
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ウィーン西駅に着くと、ハンガリーの観光バスが待っていた。運転手さんも同じ人だ。小じんまりしたレストランで、野菜スープ、ウィンナーシュニッツェル、サラダの昼食。その後まず700年続いたハプスブルク家の夏の離宮シェーンブルン宮殿観光。団体客は分刻みで見学時間が決まっていて、ウィーン在住の日本人女性ガイドさんが案内してくれた。
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ここで一番印象的だったのはナポレオンの息子ライヒシュタット公(ナポレオン2世)の絢爛豪華な部屋。母(ハプスブルク家の娘)とは離別し、父亡き後もナポレオンの子ということで監視同然にこの部屋で孤独な日々を送った彼は、わずか21歳で肺結核で亡くなっている。痩せこけてはいるものの気品のあるデスマスクに悲運な生涯が重なって見え、ハッと胸を衝かれた。

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早春の中欧をゆく(1)ブダペスト

2012/05/09 02:45
昨年末だったか、このメルマガでふと「東欧へ行きたい」趣旨のことをつぶやいたら、すぐさま知人から反応があった。「私も行きたいと思っていた、一緒にいこう」と。夢や希望は思い続けていれば叶うというけれど、本当にこの3月下旬、中央ヨーロッパに友人と2人で行ってきた。

海外のひとり旅は高くつくので、相棒がいれば鬼に金棒。といってもいつもの個人旅行ではなかった。行くと決めたら数カ月かけて旅の計画を立てるが、今回はその時間が無く、3つの都市に各2泊し自由行動の多い某旅行会社のツアーを利用することにした。

3都市とはハンガリーのブタペスト、オーストリアのウィーン、チェコのプラハ。ウィーンは10年前に行ったことがあり、もう一度行きたかった都市だ。大陸ゆえの民族移動と宗教がらみの戦争が繰り返され、支配者が変わるたび国境線も動いてきたヨーロッパ。その中央部の3カ国をめぐる旅に、関空から飛び立った。

13時間後、アムステルダム着。そこで乗り継ぎブダペストへ飛ぶ。ヨーロッパ各都市へ行くとなると、だいたい飛行時間が合計で15時間前後になる。私はエコノミークラス利用なので、体力のあるうちに遠い所から先に行きたい。そんな思いが強いので、思い立ったらすぐ実行!
  ※写真上にカーソルを置くと説明が表示されます。

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日本との時差が+8時間のブダペスト空港に到着したのは、現地時間の22時40分。さらにバスで移動しホテルに着いたのは23時40分。日付が変わる直前にやっと部屋に。関空で対面したツアー参加者は全部で16名とちょうどよい人数で、夫婦、親子、友人、家族連れのグループだった。
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ハンガリーは1989年に共産主義政権が崩壊したのち民主化を進め、2004年にはEUに加盟して、旧東欧圏の優等生と呼ばれている。ブダペスト空港からバスで夜の高速道を走っているとき、薄暗い中にいくつもの工場が沿道に並んでいたが、荒れ果てたまま放置されていた。それが延々と続く。

日本語ガイドのアグネスさんが言うには、これらの工場はかつては靴その他の工場だったという。しかし近年、中国製の安い製品が大量に入るに及んでこれらの工場は次々に潰れ、失業者が増大したと。明りが乏しく、ゴーストタウンを見ているようだった。昼間のブダペストはどんな顔をしているのだろう。
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翌日は快晴。朝9時にホテルを出発してブダペスト観光へ。気温は18度くらいで寒くはない。ブダペストは1873年、ドナウ川を挟んで西岸のブダと東岸のペストの2つの町が合併して誕生したという。聖イシュトバーン大聖堂、英雄広場、漁夫の砦、マーチャーシュ教会など名所を見学。
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昼食後は自由行動。くさり橋のライオン像を眺めたが、橋上は車の往来が激しい。ガイドさんの話ではブダペストの人口は約200万人なのに、平日は周辺地域から車で出稼ぎに来る人たちで人口が倍になると。そのため車の排気ガスがひどくなるばかり、と嘆いていた。しかしどちらを向いても、いかにもヨーロッパという街並みだ。
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夜はドナウ川クルーズ。ライトアップされた歴史的建造物を船上から眺めた。特に川沿いに建つ世界遺産の国会議事堂と丘の上の王宮は、まばゆいばかりの金色。さらに船から仰ぐ天空には、これまた金色の星と月とが上下に並んだかっこうで煌煌と輝やくという、おまけ付きの神秘的な夜景だった。
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甲州市を訪ねて

2012/05/02 09:02
4つほど予定があり、大型連休前半は東京で過ごした。そのうちの一日は、初めて山梨県甲府盆地へ足を延ばした。甲府市在住の知人がいて、樋口一葉ゆかりの地をご案内しましょうと、以前から誘われていたのである。当日はお天気も上々。朝10時、新宿発スーパー「あずさ」11号に乗車した。

都心から遠ざかるにつれ、列車は山あいを縫うように走る。高い山ではなく、こんもりと間近に仰ぐ山々には新緑が息づき、山裾や河川敷や民家の庭先には花々が競うように咲き乱れている。起伏と彩りに富んだ車窓を飽くことなく眺めていた。

約1時間半で甲府駅に着いた。知人の車に乗り込みさっそく出発。街路にはハナミズキが咲きほこり、東に向けて走る周辺には桃と葡萄の果樹園が続く。やがて目の前に屏風を立てたように山々が迫る。その中でも一番高い嶺がかの有名な大菩薩峠だという。その高さは2057メートルと地図にあった。

特急列車もない江戸末期。一葉の父母はどんなふうにしてあの大菩薩峠を越えて江戸へ出奔したのか、しかも母は身重の体だったのに。その疑問を知人にぶつけると、ふたりは大菩薩峠を越えたのではなく、静岡に出て東海道を経て江戸へのぼったと。なーるほどと納得、初めて知った。

樋口一葉の父母は、ともに山梨郡中萩原村(現在は甲州市)の出身である。最初に知人が案内してくれたのは、樋口家墓所。そこは樋口家の屋敷があった場所で、大正12年に一葉の妹邦子により墓が建れられたという。周囲を果樹に囲まれた美しい場所だった。
  ※写真をクリックすると拡大します。

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車窓から雄大な大菩薩峠を眺めながら、一葉の父母の出会いの場所となった慈雲寺へ向かった。この境内には樹齢330年といわれるイトザクラ(糸桜)があり、名所になっている。また境内には大正11年に建立された樋口一葉の立派な碑があり、花木に囲まれて静かに佇んでいた。

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その碑の裏側を見ると、びっしりと人名が並んでいる。賛助人として幸田成行(露伴)はじめ森鴎外、半井冽、馬場胡蝶、三宅龍子、副島八十六など生前交流のあった人々、また与謝野寛・晶子、山川菊枝、平塚明子、相馬御風、鏑木清方等々の文化人、そして親戚と続く。総勢160余名もあった。

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次に知人が案内してくれたのは、一葉の母の生家だった古屋家。家屋は建て替えられているものの、代々この地で農業を営んでおられるという。広い庭の一角には築山があり、ブドウ畑、周辺には竹林が広がる。しかし何代か前、家が潰れたことがあったという。

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一葉の遺品がほとんどないのは、そのためだろうという当主のお話だった。いまは元の場所に家が再興されている。一葉と母と妹の写真、一葉の兄虎之助の絵付けした皿2枚、明治45年出版の樋口一葉全集上下二巻、遺品はこれだけしかありませんと、見せていただいた。

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20年もかけて一葉のことを調べ評伝を書いたのに、父祖の地を訪問したのは初めてだった。家の格の違いを理由に恋愛結婚を許されなかった一葉の父母は、幕末(1857年)に村を出て江戸に新天地を求め、共働きで運を開いた。その度胸と努力が一葉という作家を生む源にあったのだと、大菩薩峠を仰ぎながらしみじみ思ったことだった。

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鳥がいない

2012/04/25 00:33
わたしが鹿児島市に転居した12年前、JR鹿児島本線の南の起点である鹿児島西駅(現・鹿児島中央駅)前は空き地が多く、ガランとしていた。ところが2005年ごろから、新幹線開業に合わせて駅ビルが新築され、駅前には大きなビルが建ち並び、60万都市の表玄関にふさわしい姿にすっかり変身した。

この鹿児島中央駅周辺には毎年秋から冬にかけて、野鳥のアトリが飛来してくる。街路樹をねぐらにしているのか、夕方になると続々と集結してきて、まるでイワシの大群が一団となって泳ぐように、縦横無尽に頭上を飛び回る。

街路樹に止まった鳥たちはおしゃべりに夢中。そのうるささと言ったら自動車のラッシュ時の比ではない。一体何万羽いるのか、木という木が騒音の源になり、おまけに木や電線の下はアトリのフンで真っ白。信号待ちの人が、頭上からフン害に遭うことだって珍しくない。

そのアトリの大群を、どういうわけか昨年は全然見かけなかった。たまたま遭遇しなかっただけかもしれない。けれど毎年の光景だったから、なぜ? と不思議に思う。ビルは増えても街路樹はある。昨年は鳥インフルエンザで大騒ぎだったから、何か関係があるのだろうか。

最近鳥がいないというのは、なにもアトリに限ったことではないらしい。というのも長年農業をやっている人の話によれば、ここ数年、雀を見なくなったと。そればかりか蜂も蝶も、すっかりいなくなったというのである。

クロガネモチの実はこの時期、鳥に食べられて無いはずなのに、ある。ブロッコリーもヒヨドリの大好物なのに、今年は食べられていないと。農家だからこそ、より一層ここ数年の異変に敏感なのだろう。雀がいなくなったのは、数年前、イギリスで大問題になっている。

世界の各地で蜜蜂がいなくなったのも一時期話題になったが、いまはどうなのだろう。農家の人の話では、鳥や蜂や蝶がいなくなって、いるのは人間とカラスだけだと。ブラックユーモアとして笑えない、なにか不気味な感じが
漂う。

その原因として、原発の影響を指摘する説、ネオニコチノイド(低毒性農薬)を原因とする説などがあるが、はっきりしないという。ただ蜜蜂の大量死に関してはネオニコチノイド系農薬との関連が指摘され、EU各国で使用禁止
などの対策が取られている。

ネオニコチノイドは人体に対して毒性の弱い農薬として開発された殺虫剤で、ウィキペディアによれば「一般家庭のガーデニング用から農業用、シロアリ駆除、ペットのシラミ・ノミ取り、ゴキブリ駆除、スプレー殺虫剤、新築住宅の化学建材など広範囲に使用されている」といい、案外身近にある。

あの3.11の大震災を人類への何らかの警鐘と受け取るならば、身近な蜂や蝶や鳥の不在は何を物語るのだろう。いつでも弱いもの、小さいもの、人間なら胎児や乳幼児が一番環境汚染の影響を受けやすいのは、過去の公害が教えている。過剰な心配や不安はよくないが、もっと環境変化に注目したい。

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満開の一本桜に

2012/04/18 01:43
熊本県南部に位置する人吉盆地を貫いて流れる一級河川の球磨川。いくつもの支流をたばねながら八代平野を経て、やがて不知火海(八代海)に注ぐ。日本三大急流の1つに数えられる急流を下る球磨川下りは、人吉市一番の観光名所だという。

4月上旬の晴天のもと、その球磨川に沿って上流方向へ車を走らせると、やがて市房ダムの湖畔が見えてきた。ダム湖の形に沿ってぐるりと走る道。そこは「日本さくら名所100選」に指定された桜並木というだけあって、湖畔が桜色に縁どられている。

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折しも満開を過ぎた桜は花吹雪となり、風と戯れながらさかんに舞っている。球磨川上流の水上(みずかみ)村湯山への道を、みたび辿ろうとは思ってもみなかったのに。その日、10年ぶりにトルストイ翻訳家の北御門二郎さん宅を目指すことになったのは、どんな縁(えにし)に導かれてのことだったろう。

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用あって水上村へ行くという知人が、思いがけず誘ってくれたのである。昨年秋、「トルストイをめぐって」という特集を組んだある雑誌に、私は北御門二郎さん宅への訪問記を寄稿した。その雑誌を持って、とにかく行ってみることになった。

北御門二郎さんは2004年7月17日、91歳で亡くなった。3年後奥さんも亡くなり、息子さんが家を継いでおられる、ということしか分かっていない。アポ無しの押しかけ訪問だったが、幸運にも在宅中で、無事に雑誌を手渡しすることができた。

熊本県と宮崎県境にどっしりとまたがる標高1720メートルの市房山。その山麓に第二次大戦中に帰農して住み着いた北御門さんは、まもなく結婚。開墾した山の斜面は70年後のいまも、米・茶・しいたけ・野菜等の栽培で自給自足に近い生活の場として保たれている。

北御門二郎さんは徴兵拒否者である。キリストの教えの影響もあった。徴兵検査のとき「頭が狂っている」として、兵役とは関係なしとされた。いっぽう、戦中も川上肇らと親交があったり反戦的な発言のため、特高刑事から常にマークされ、逮捕寸前の状態にあったという。

その当時の経緯は自伝『ある徴兵拒否者の歩み』に詳しい。しかしあの時代、徴兵拒否について村人たちの反応はどうだったのか、それがずっと気になっていた。今回そのことについて、戦死した夫や息子のいる村人たちは北御門さんに対して偏見があった。いまでも多少ある、と地元の人から聞いた。

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北御門家の裏手には小さな渓流があり、草花の咲く庭の上は一段高い茶畑に、さらに上方が畑になっている。その中腹に満開の桜が1本佇んでいた。「書斎の見える場所に」との遺言どおり、息子さんのデザインされたお墓がその桜の真下にあり、なんとお墓参りまで実現したのである。

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帰路、行きとは別のダム湖畔の道を通ると、風に花弁が乱舞している。車を降りてしばし桜吹雪を仰ぎながら思った。あの一本桜には、息詰まる軍国主義時代、反戦・非暴力のトルストイの思想に生きる光を見出した北御門さんの魂がきっと宿っているはず…と。素敵な春の一日だった。

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ヘイトクライム

2012/04/11 00:07
日本に生まれ、日本に住んでいるから銃とは無縁に過ごしている。銃の携帯が法的に許されている職種の人は別として、普通に暮らしている限り銃は生活に必要ない。だから人が銃の犠牲になることの少ない社会は、安全な社会かどうかのバロメーターになると思う。

そんな意味でも、縄張りや権力抗争に銃を使いたがり、銃なしには組織を維持できない暴力団が社会に受け入れられないのは当然である。もちろん車も包丁も、使い方を誤れば殺人の道具になる。けれど銃は最初から、生き物を殺傷する目的で作られている。

銃は個人で携帯できる。ある人が、他の人や集団や事物に対し憎悪の感情を抱き、銃を手に入れた場合、そのゆきつく先は想像できる。物事の解決を話し合いではなく、銃を手に感情的・短絡的な方向へと走ってしまう。武装は人に過剰な優越感を与えるのだろう。

こんなことを考えるのは、最近「米国内で増加するヘイトクライムの現状について」という、在ニューヨーク日本国総領事館から発信された、日本人旅行者や市民に注意を呼び掛ける記事をネットで読んだからである。

「ヘイトクライム」とは人種・民俗・宗教などへの偏見、差別感情が原因で起こる犯罪のこと。元々アメリカ南部の保守層が集まる地域で、白人至上主義者が特に黒人に対して行ってきた憎悪犯罪だったが、近年は多様な人種や宗教が混在するニューヨーク市で発生率が高くなっているという。

アメリカでは警察機関が差別犯罪行為の検挙に努めた結果、2000年には同犯罪数は減少に向っていた。しかし2001年9月11日の同時多発テロの発生、さらに多数の戦死者を出しているイラク戦争によりアメリカの市民感情が激化しているいことが背景にあるようだ。

ニューヨーク市とその周辺には、約140万人のユダヤ人と推定80万人のイスラム教信者が居住していて、両者の間でヘイトクライムが増加しているという。ただ彼らの移民コミュニティーを狙ったものは必ずしも凶悪犯罪ではなくて、宗教や人種に対する差別的落書きなどの嫌がらせが多いという。

先日、鹿児島市内で「灼熱の魂」というカナダ・フランス映画を観た。1970年代半ばの中東レバノンの内戦や2006年のイスラエルとヒズボラの衝突などに着想を得て脚本が書かれ、民族間・宗教間の抗争、憎しみと暴力の連鎖の歴史を背景に、中東系カナダ人女性の数奇な人生があぶり出されてゆく。

双子の姉弟が亡き母の「兄と父を捜しなさい」という遺言に従って、母の祖国へ行き、母の生きて来た痕跡をたどるなかで衝撃的な事実に出会う。ヘイトクライムの行きつく先なのか、宗教が違うというだけで、いとも簡単に人が銃で殺されてゆく。

憎悪と暴力の連鎖といえば、いまもイスラエルのガザ地区で続いている。日本人のわたしには映画を観ても理解できない部分があった。一神教と多神教の違いか。十字架に磔の神と、半眼でたおやかに微笑む仏の違いだろうか…。銃の存在が暴力の連鎖を増長していることだけは確かだ。しかし紛争地にあのように銃が多いのはなぜか。今度はそのことが気になって仕方がない。

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カーネーション

2012/04/04 02:48
NHKの朝の連続ドラマ「カーネーション」が終わりました。朝ドラを見ていない時期が長くありましたが、「ゲゲゲの女房」から「おひさま」、そして「カーネーション」と欠かさず見続けました。朝ドラ大好きのわが家の同居人は1日3回も、「連続ドラマ」だから連続でと見ています。

朝ドラのほとんどは女性が主役と相場が決まっていて、しかもその人物像は「清く・正しく・美しく」をベースに、けなげで、でもガンバリ屋さんで、誰からも好かれる可愛い女性が苦難にめげず成長していく…みたいな設定になっています。

ところが「カーネーション」は歴代の朝ドラ主人公の中では、型破りのガラの悪さ。でも実在のファッションデザイナー・コシノ3姉妹を育てあげた母・小篠綾子さんがモデルならあり得ると、逆に納得。主人公役の尾野真千子さんがあまりにもピッタリで、すっかりはまって毎日見ていました。

過去何度も朝ドラを途中から見なくなっていきましたが、それは現実味に乏しいエピソードを無理にこしらえ、いかにも作り話という展開になっていくからでした。今回は実在の人の一生を描いているだけあって、違和感なくドラマに入っていくことができたのです。

画面に古いミシンが出て来たとき、あれとそっくりな足踏みミシンが実家にもあったことを思い出しました。同居していた叔母さんが洋裁をしていたからです。叔母さんは結婚後も内職で洋裁をして家計を支え、姪であるわたしたち3姉妹のお揃いの服も、よく作ってくれました。

でもそれは戦後のこと。「カーネーション」の主人公はまだ着物姿が普通だった昭和1ケタ時代に21歳でミシン一台で洋装店を開業し、92歳で亡くなるまで現役のデザイナー。なんと戦死した夫の分まで70年間も働いて来られた、驚異の仕事人間です。その生涯が面白くないはずがありません。

もちろんドラマですから全部のエピソードが事実というわけではなく、フィクションが加えられています。それを含めて笑ったり泣いたり楽しみな毎朝でした。ミシンのダダダっと動くさまを見て、これぞ自分にとっての「だんじり」だと熱中するときなど、心臓の鼓動に似せた音楽もハイテンポ。糸子のわくわく感が伝わってきます。

呉服商だった父親は、女が男に勝とうと思うなんて大間違いと、糸子の意思を何度もへし折ります(ぶん殴って!)。それにも負けず、男の人が好きな事を自由にできるのだから、女だってと糸子は負けません。そんな娘に厳しい商売の修行を命じる父親を、腹は立つけど偉い、と思って見ていました。

糸子の恋愛問題もありました。実際の不倫相手の男性を、ドラマでは長崎出身の周防さんと仕事仲間の北村の2人に分けて、フィクション化したものだとか。糸子が周防さんとの別れ際に「好きでした」と告白したのでびっくり! あんなふうに告白できたら、わたしの人生変わっていたかも…なんて。

60歳の糸子から一気に飛んで72歳になったところで、小野真千子さんから夏木マリさんへ主役交代でした。個人的には60歳まででよかったように思います。ただ、74歳でブランドを立ち上げ92歳まで現役という生き方は、たやすく真似できるものではありませんが、多くの人に勇気を与えたでしょうし、わたしも大きな刺激を受け取りました。

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