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一樹の蔭一河の流れ

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一樹の蔭一河の流れ
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文芸サイト「文学夢街道」管理人の杉山武子です。
五十代からが人生楽しい!をモットーに、読書・映画・旅行など日々の活動から思うこと感じることを、水曜日に書いています。
ブログ名は平家物語の「一樹の蔭に宿るも前世の契り浅からず、同じ流れにむすぶも他生の縁なほ深し」に由来しています。どうぞよろしく! 
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母なる証明

2009/11/18 00:30
先週福岡に行ったついでに、ポン・ジュノ監督映画「母なる証明」を観た。原題は「Mother」つまり「母」。映画としてはとても良く出来ていると思う。枯野で母親がいきなり踊りだす冒頭部から風変りで、最後まで観ると、最初の場面の意味が分かるというぐあいに、いろんな伏線が張られたサスペンス仕立ての韓国映画だ。はらはらしながら観た。

あらすじを簡単に紹介すると、夫を早くに亡くし、漢方薬店で働きながら純粋無垢の心を持った一人息子トジュンと暮らす母親。ある日近くで女子高生が殺されるが、たいした物証もないのに警察はトジュンを犯人に仕立て上げ、逮捕する。警察も弁護士もあてにならないと知った母親は、自分で真犯人を探し息子の無実を証明しようと奔走しはじめるが…。

ストーリーもよく練られて無駄が無く、映画としての完成度はとても高いと観終わって思った。しかし、と映画館を出てしばし私は、母親の子に対する愛情というものについて考えさせられた。そういう意味ではこの映画は、母親の属性ともいうべき子への愛情について、一筋縄ではいかないものを衝撃的に見せてくれたと思う。

私も女として生まれ、二人の娘を産んで育てた。つまり母親だ。映画にある母親の息子への愛情の注ぎ方、息子の無実を信じ、息子を守るために敢然と立ち上がる母親の行動力。息子への愛情が次第に荒々しいものへと変容するその愛情こそが魅力でもあるが、価値観が違えば逆に受け入れられない人もいると思う。

女が女を産むのは何の不思議もないけれど、女が男を産むのはとても不思議だ。私は女の子しか持たなかったので、男の子を育てた経験がない。私は女の子であっても、ちゃんと社会に出て生きていけるよう、つまり食べていけるよう、ごく普通の子育てをしてきた。私の母が三人の娘に仕事を持って自立するよう育てたように、いつの間にか私もそうしていた。

女の子であれ、男の子であれ、基本的な子育てはなんら変わらないと思っている。ただ私は映画を観ていて、息子に対する母親の接し方には、娘に対するのとは少し異質なものを感じてしまった。例えばもう大人になった息子でも、母親とはまだへその緒でつながってでもいるように、ねっとりした関係とでもいうのか…、私の子育てにはなかったものが映画にはあった。

私が働いていたころの同僚で、一人息子を持つお母さんがいた。彼女は夕食を用意するとき、食べざかりの高校生の息子のため、時々腕によりをかけてもう一品を作るそうだ。料理を皿に盛って食卓に置くとき、息子に食べてほしいので、夫と息子の中間よりはちょっとだけ息子のほうに置くそうだ。それを夫が先に「おっ!」なんて箸をつけると内心腹が立つ、と聞いて驚いた。

私がまだ仕事をしていたころの話で、真面目な男性がいた。五人兄弟の末っ子で、しかも独身なので母親と同居していた。その母親がお弁当を作ってくれる。昔ふうのアルミのお弁当箱の、白ご飯のまん中には梅干が1つ。おかずは卵焼き、蒲鉾、芋を煮たの、蒲鉾をめくると下にウインナー。このお弁当を毎日毎日、彼は職場に運んで来た。けれど彼は食堂で食べていた。

帰り道、彼は川を自転車で通るとき橋の真ん中で止まって、弁当箱をひっくり返して中身を川へ捨てるという。もう70歳近い母親が作ってくれるお弁当。おかずの内容も並べ方も毎日同じ弁当箱のふたを開けると、とたんに食欲が無くなるんです、いらないと言っても作って持たせる母親の愛情と、それを川に捨てて、おいしかったよという私の愛情を、どう思いますかと。

親である自分たちのことを思えば、なにも立派な覚悟があって母や父になったわけではない。子育てを学ぶなら、動物の子育てが本来の親子のあり方を示しているように私は思う。人間も動物だから、生きるための力と知恵を身につけさせ、親はいつまでもいないということを教えれば、冷たいようでもそれが親の証明ではないかと私は思っている。

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本物のぬくもり

2009/11/11 00:13
たとえばデジタルカメラで写真を撮る。その画像データをパソコンに取り込んでしまえば、あとはこっちのもの。とばかり、画像ソフトを使って画質をシャープにしたり、セピア調にしたり、明るさを強調したり、逆に暗くしたり、色調を変えたりと、撮った元画像を調整し加工することができる。その作業は素人でも簡単にでき、限りなく違うものへ変化させることができる。

たとえば音楽をCD(コンパクトディスク)で聞く。音楽用CDは1980年代後半から一般に市販されるようになったと記憶するが、それから10年ぐらいは私はまだ音楽はレコードで聴くことが多かった。レコードを良いステレオで聴くために、少々根が張るステレオを買ったりもした。CDが出始めのころは、シャープではあるけれど深みのない機械的な音になじめず、レコードのほうをもっぱら聴いていた。

クラシック音楽大好きな私は、その方面のCDもかなり持っている。クラシック音楽の録音の場合、左右1対のマイクロフォンで集音してそのまま2つのチャンネルの音声とする方式がほとんどらしい。一方、ポップス、ジャズ、演歌などの場合は歌手や楽器ごとにマイクで録音し、それをオーディオミキサーで2チャンネルの音声にまとめる方法が採られているそうだ。

つまり音楽もデジタルカメラの画像と同じで、CDで私たちが聴いている音は、限りなく人工的な音ということになる。いくつもの音源を加工してより完成度を高める作業がミキシングで、それは音のバランスや音の距離感、音の広がりを主に調整する作業という。最近の私は、クラシック音楽でさえステレオではなく、パソコンにセットしてヘッドフォンで聴いてることが多い。簡単便利だけど、ある意味、お手軽なニセモノを聴いているようなものだ。

先日、そんな日頃の不満を晴らすような素敵なコンサートに行って来た。私の大好きなヴァイオリン奏者五嶋みどりさんをソリストに迎えての、ドイツ・バイエルン放送交響楽団の演奏会だ。指揮者はマリス・ヤンソンスさん。いつかNHKテレビの音楽番組でヤンソンスさんのインタビューを見て以来、すっかりファンになった。夏にはチケットを購入して、その日を待っていた。

残念ながら鹿児島市には来てくれない。そこで当日、つれあいのその日のお弁当を作り、掃除洗濯、翌朝分の味噌汁の用意など、最低限の主婦業を済ませて、ルンルン気分で福岡市へ。開演時間の午後7時に合わせて、移動時間に読むための文庫本、藤沢周平著『白き瓶』を携えてお昼ごろに出発。今回はつれもいなかったが、ちょっとおしゃれをして開場待ちの人々に混じり、開演前のどきどき感もたっぷり楽しんだ。

私は福岡市に住んでいたころにも、大阪市と神戸市で行われた五嶋みどりさんのコンサートに行ったことがある。そのときは仕事をしていたので、仕事が終わって夜行バスで大阪梅田まで行き、昼は街をぶらつき、夜コンサートが終わり次第、また夜行バスに乗って朝方福岡に戻り、そのまま会社へ出勤という荒技をこなした。もちろん夫も子どもも置いて。数年に一度のチャンスだもの、それぐらいのワガママはさせてね行ってきます、と。

今回は前半に五嶋みどりさんをソリストに、ベートーヴェン作曲「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」が演奏された。アクロス福岡シンフォニーホールの3階席だったが、思ったよりは舞台が近く、しかもオーケストラ全体はもちろん客席も俯瞰できる正面の位置。演奏が始まるや、ホール全体に響き渡るオーケストラの豊かな響きが、私の全身を包みこんだ。本物のオーケストラとはこんなにも深く温かい音色だったのかと、目ではなく、耳がくらむような心地だった。

そこに五嶋みどりさんのヴァイオリン、ガルネリ・デルジェス「エクス・フーベルマン」(1734年作)の澄んだ音が加わる。五嶋みどりさんはどんな難曲でも完璧に弾かれるので、いつも安心して演奏を堪能できる。特に第一楽章と第三楽章の終盤に演奏されたカデンツァ(独奏部分)は音の曼荼羅が見えるようで、聴きほれるばかり。ステージ上の楽団員さんたちも、みどりさんの演奏を食い入るように見ていた。みどりさんのアンコール曲目は、J.S.バッハ作曲「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第1番 第2楽章」だった。

これも私の大好きな曲だったので、私は身を乗り出して聴きいった。あの広いホールがみどりさんの、というかみどりさんの魂が奏でる弦の音だけが支配する空間となり、1860余人の聴衆はもう息をのむばかりに耳を傾けている。
後半のブラームス作曲「交響曲第2番ニ長調」は明るく大らかな曲想で、ヤンソンスさんの優雅な指揮に見とれてしまった。聴衆の拍手にこたえて2曲もアンコールが演奏され、大満足。久しぶりにオーケストラの生演奏を堪能し、全身の細胞をあまねく活性化させられた至福の一夜だった。

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ケ・セラ・セラ

2009/11/04 00:11
鹿児島に住むようになった10年ほど前のこと。それまでフルタイムの仕事を持っていたわたしは、平日の昼間にデパートに行くことなど、ほとんどない生活だった。ところが専業主婦になって、マーケット・リサーチと称して朝から買物に行くようになった。デパートの開店時間に合わせてバスに乗ると、乗客の7割ぐらいは元気な年寄りで占められている。

小さなリュックを背に、顔見知りも多いのか、どこへ何をしに行くのかと根ほり葉ほり情報交換が続く。けっこう大きな声なので、何でもよく聞こえる。鹿児島弁なので意味不明の部分もあるけれど、病院通いが圧倒的に多いようだ。目的地に到着するとお年寄りは運転手さんに何度も頭を下げ、お礼をされるが、万事動作がスローモー。うしろがつかえているけど、だれもせかす人はいない。

つい数年前まで高齢者の市営バス・電車は無料だったので、下車の際は毎度お礼の行動が見られた。こんなに無賃のお年寄りが多ければ、市交通局の財政が苦しいのも当然だと、妙に納得させられたものだ。ところが数年前無料パスが廃止され、運賃の一部負担が導入された。すると顔写真付きのパスを胸張って提示して、お年寄りがさっさとバスを降りていかれる。これも無料と有料の差かと、微妙な態度の違いが面白い。

バスに乗るとお年寄りが多いので、走行中は立つな動くなと、運転手さんの車内事故防止の注意がやかましい。バスや電車にお年寄りが乗ってこられると、席を譲る人が多い。ところが近いからとか、断わる人がいる。こんなとき譲った人はとても間が悪いものだ。ある時など断わってから、足を踏ん張り握り棒に必至でつかまるお年寄りを目撃したが、見苦しいしちっとも可愛くなかった。

たとえ1つ2つ先で降りるとしても、譲ってくれた人の好意を素直に受けて、気持よく座っていただきたいと思う。あるときバスで、高校生がお年寄りに席を譲っていた。お年寄りが断わっていたのを見た私は、つかつかと寄って、「おばあちゃん、1駅でもいいから座ってあげてください」と言って、やや強引に席に掛けてもらった。おせっかいだけれど、若い人の善意をくじいてはいけないと思ったから。

お年寄りに限らず、人に親切にされたら素直にそれを受けるのがいいと思う。他人の好意に対してお返ししたければ、何もその人でなくても、別の日に、別の人に、親切にすればいいことだ。そうすれば好意を受けたことを負担に思う必要もない。そうやって好意の連鎖が連綿と続いていけばいいし、現にいまも、好意の輪は見えないところで確実にまわっているのだと思う。

こんなことを思ったのは、人間はいくら元気でもいつかは老いるし、誰かの助けなしには生きていけないと、しみじみ思ったからだ。というのも先週、一人暮らしの義母と実母の家をそれぞれ訪問したことがあった。義母は病院通いしながら体調管理に気を使い、自宅での自由気ままな生活を続けたいと願っている様子だ。

実母は昨年末圧迫骨折して一時期歩けなくなったが、入院とリハビリの甲斐あって、かなり足取りも軽く歩けるようになっている。母の退院後、私はすぐ介護保険の申請をしたが、要支援2と判定され、週1時間だけ掃除や洗濯や買物をしてくれるヘルパーさんに来てもらっている。それに週2回のデイ・ケアを利用し、宅配弁当も頼んで、以前と変わらず一人暮らしを続けている。

実母は最初、近所の人がだれも介護保険を受けてないからと申請を嫌がった。それは世間体を気にしているからで、介護保険料を引かれて不満をこぼしていた母に、これは助け合いを制度化したもので、そのために高い保険料を払っているのだから、自分が必要になったら遠慮なく利用していいの。いまお母さんにもその時が来たの、と説得して、ヘルパーさんの手を借りることが恥でも何でもないことだと理解してもらった。

わたしの2人の老母はともに、病気に倒れた夫を10年近く介護し、看とり、いまは自由気ままな一人暮らしを楽しんでいる。ゆえに遠く離れた子の負担になってはいけない、ボケてはならじと気を張りながらも、先のことを憂いてもしょうがないと開き直り、前向きだ。なるようになるだけよ人生は。ケ・セラ・セラと。

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誠実さ純粋さを貫く

2009/10/28 00:30
先日、女友達と話しているとき、石垣綾子さんのことが話題になった。私は一度だけ石垣綾子さんを見ている。それは20年ほど前に講演を聴いたからで、その日、福岡市博多区の冷泉小学校講堂には多くの市民が集まっていた。先に石垣綾子さんは86歳のご高齢と紹介があったので、シワシワのおばあさんを想像していた。しかし登場されたとき、見事に裏切られた。

大胆な花柄の長いドレス、ふち模様の派手な大ぶりなメガネ、たっぷりした黒髪、シワもタルミもない頬。背筋はあくまでピンと伸び、あでやかな笑顔でさっそうと登場された時には、心底驚いてしまった。私には60代にしか見えなかった。その圧倒的な存在感にたじたじとなり、美しく老いるということの実例を目撃した日でもあった。その7年後の1996年に、石垣綾子さんは93歳で亡くなった

石垣さんの旧姓は田中。父は三四郎という名で、1903年東京生まれの綾子さんは中産階級のお嬢さんとして早稲田の自宅で育った。数軒先に夏目漱石の家があり、散歩中の漱石が珍しい名前の表札に目をとめ、小説の『三四郎』という題名を思いついたということらしい。

漱石の三女の愛子さんは早稲田小学校で綾子さんと同じクラスだったが、日本女子大付属小学校に転校する。きれいな着物に頭には大きなリボン、黒塗りの人力車に乗って有名校に登校する愛子さんの姿を、綾子さんはうらやましく思ったという。しかし父親は「特別扱いを子供のときに受けるのはよくない。偉くもないのに、偉い人間のような気をおこさせるから」と反対。近所の子供たちと一緒に勉強するのがよいという考えだったという。

綾子さんは大人になるまでに、実の母に続き新しい母とも死別しているが、家は裕福で働く必要はなかった。当時はまだ「職業婦人などよい家の娘の生きる道ではない」という時代であった。彼女はこう回想する。

 私は府立第一高女を経て、自由学園を卒業したが、職業人として社会
 に出てゆく訓練は身につけていなかった。その教育は妻の座に坐る女
 になるためであって、嫁にゆくアクセサリーにすぎなかった。人間として
 経済的に独立できる資格は、なにもなかった。
               (『私の爪あと』より引用。以下同じ)

アルバイトのようなことをしては辞めてしまうので、綾子さんは先輩女性から「やっぱりあなたはお嬢さんなんでしょう。仕事はつらいものよ。でも働かなければ食べてゆかれないから、働くのよ。あなたはその必要にせまられていないのね」と言われてしまう。その頃山川菊枝訳ベーベル著『婦人論』を読んで、綾子さんはゆううつな闇の底から広々した空が突然開けるのを感じたという。

やがて綾子さんは婦人運動家奥むめお主宰の雑誌『働く婦人』の誌友獲得を手伝うことになり、奥むめおの住居をたずねる。家の中では小さい男の子が駆けまわり、背にくくりつけた赤ん坊は泣き叫び、そうしたなかで奥むめおは「婦人問題十二講」を書いていたという。有名な彼女がそのような環境で仕事をしていることに感心した綾子さんは、有名人に雑誌『働く婦人』を売り歩く。

綾子さんはその後、姉の夫が外交官としてボストンに赴任するので、姉夫婦に同行して23歳で渡米。恋人には1年後に戻る約束をしたが、ニューヨークで画家石垣栄太郎と出会い、結婚。第二次世界大戦中は日本の軍国主義に反対する活動を続け、1951年帰国する。その後は評論家として活動された。

 どんなにささやかなものであろうが、人間は生きることそれ自身が大切
 なのだ。自分の力ではどうにもならない困難や、恐ろしい障害があって
 も、生きるということで、打ちかってゆかねばならない。 その生きること
 は、誠実さ、純粋さを貫くことで、それなしには、死も同然である。誠実さ
 を失えば、自己の魂は、春の花が害虫に喰い荒らされるように、芯まで
 腐ってしまうのだ。(同前)

最近の世の中は、誠実さや純粋さという言葉を真面目に口にするのも気がひけるほど、殺伐とした一面がある。嫌な事件も起きている。そんないま、綾子さんのいわれる誠実さや純粋さを貫くことは、いかにも地味で目立たない。けれどどっこい、それはいまも大多数の日本人の意識に根付き、希求している生き方なのだと、私は密かに思っている。

 ※参考文献 石垣綾子著『石垣綾子―私の爪あと』日本図書センター
       1998年8月刊 1890円
 
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日本人てなに? 

2009/10/21 00:06
前々回のエッセイで、約400年前に朝鮮から連れて来られた陶工を祖先とされる、鹿児島県日置市美山(みやま)の陶芸家・15代沈壽官(ちん・じゅかん)さんの言葉を紹介した。それは「日本人て何ですか? 日本人の定義を書いた紙があれば見せてもらいたい。何をもって日本人というのか、日本人て一体何だろうと、いつも考えている」と。

その言葉がずっと耳に残っていて、折に触れて私も考えている。日本人の両親に生まれたから、日本で生まれたから、日本語を母国語とするから、それが日本人。という具合に、民族や国籍で考えるのが一番分かりやすいかもしれない。15代沈壽官さんのように、祖先から数えて400年も日本に住んでいる家系なら、ルーツはどうであれ、沈さんは日本人だと私は思う。

日本のように島国だと日本国民=日本人と考えてしまいがち。だけど大陸の国では、国内に複数の民族が共存する場合が多いので、民族と人種と国民は必ずしも一致しない。私は日本人というのは、国籍以外の面でいえば、日本語でものを考え、日本語で話し、日本語で読み書きする人のことだと思う。

逆にたとえ国籍や言語や人種が違っても、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のように日本の文化や風土に馴染んで、日本人になった人もいる。ハーンは小泉セツと正式に結婚するため、小泉家に入籍して帰化し、小泉八雲と名乗った。結婚に際し英国の知人に宛てた手紙で、ハーンはこんなふうに書いている。面映ゆいような内容とはいえ、これは約120年前の手紙。

  日本女性ほど美しい性格の持主は世界には珍しいと思います。
  日本民族の善事の可能性は女性に集中しておるように思えます。
  これは西洋主義を有難がっている者の信仰を動揺させるもので
  あります。(明治24年7月、チェンバレン宛書簡)

また言葉の問題だけでなく、日本の歴史と伝統のうえに築かれた日本人的気質・所作を身につけた人、それも日本人であろうと思う。先日のテレビで、日本で仕事をしている日本語の堪能な外国人が、こんなことを話していた。日本の最大のブランドは何だと思いますか? それは日本人です。日本人こそが日本の最大のブランドなのです。もっと自信を持ってください、と。

また別の外国人は、ヨーロッパでは日本映画といえば黒沢明や小津安二郎が有名。けれどそれは監督というより、映画の中に出てくる日本人たちが大好きなんだと。私は以前、同じようなことを外国人から聞いたことがある。「七人の侍」を欧米人が好むのは、あの映画の中の人物たちが魅力的だからで、特に宮口精二の演じた久蔵が人気があると彼は言った。西欧にはあまりないタイプなのだろうか。

久蔵は寡黙で冷酷で凄腕の剣客で、自分に厳しいストイックな侍。外見はそうでも実は優しい男だ。いざとなったらやるべきことは必ずやり遂げ、しかもそれを自慢したりしない。久蔵は宮本武蔵がモデルだという。けれど相変わらず「七人の侍」が人気では、近年の日本映画には黒沢・小津を超えるような魅力的な日本人を描いた作品がない、と言われているようにも聞こえる。

日本語が堪能な韓国人の知人は、私にこんなことを言った。日本語には相手を罵倒する汚い言葉が「バカ」ぐらいで、あまりない。韓国人はケンカの時など聞くに堪えない言葉を吐くし、英語の場合も日本語では言いたくない下品な言葉を使うと。日本人だってクソッタレとかゲス野郎などと言うが、性的な意味と結びつけたあくどい悪口の数は、中国や欧米が圧倒的に多いと。

それは日本語の場合、日本人に「言霊」(ことだま)信仰があるからだと言われる。言霊とは「言葉に宿っている不思議な霊威」(広辞苑)のことで、むやみなことを口走ると言葉通りのことが起きると、古代から信じられてきた。また現代でも、病院で4や9の数字を避けたり、結婚式では切る、裂く、帰る、戻るなどを忌み言葉として避ける。

鶴見俊輔さんは、日本人は言葉に対して畏敬の念をもっている、と指摘されている。日本語にIやYOUを指す語がいくつもあったり、尊敬や謙譲語を使い分けるのも、言葉を大切にする意思の表れと私は思う。人種や民族に関わらず、日本語のもつ微妙なニュアンスを解し、日本語を上手に操れる人は、日本人あるいは日本人の心を持った人といえるのではないだろうか。国籍はともかく、日本人を外見や名前で狭く規定しなくてもいいように思う。 

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芸術家たちの言葉

2009/10/14 01:09
芸術の秋たけなわのきょうは、私の言葉コレクションノートから、特に音楽家・演奏家たちの発した言葉を紹介します。芸術家といえば、才能豊かで、その才能が努力の甲斐あって開花し、華々しい活躍をすれば大家だ巨匠だと人々に称賛されます。偉大な芸術家は称賛されて当然だとは思いますが、私はその称賛の陰に隠れた努力の部分に人間的興味を引かれます。

名声や称賛というのは泡(あぶく)のようなものだからです。そのことが分かっている真の芸術家というのは、そんなものに満足しないでしょう。私は洋楽器では特にヴァイオリンやチェロが好きです。その音色が人間の声に近いし、声楽のように楽器が歌うからです。(歌うために鍛錬された人間の声は、どんな楽器にも勝ると私は思っています。)

アゼルバイジャン(旧ソ連邦)出身のムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927〜2007)は私の大好きなチェリストです。彼は1970年、言論の自由を擁護する立場から、社会主義を批判した作家A・ソルジェニーツィンや物理学者A・サハフを擁護しました。そのためソ連当局から「反体制」とみなされ、国内外での演奏活動を禁止され、1974年に出国後亡命し、アメリカに拠点をおいて活動します。


彼は日本が大好きで何度も来日しています。日本食では特に寿司が大好き。来日の際には東京の築地市場へ足を運ぶので、なじみの店があり、顔見知りがいたようです。そのロストロポーヴィチが数年前に来日の際、テレビ番組のインタビューに、素敵な言葉の数々を語りました。

 ・音楽とは心の美しさを表すものだ。
 ・苦しみが与えてくれるものは力だ。
 ・自分の良心の気高さを守ること。

 ・私たちの心の中には良いものと悪いものがカクテルのように混ざり
  あっています。大切なのはその中に、いかに良いものをたくさん加
  えるかなのです。

アルゼンチン出身のブルーノ・レオナルド・ゲルバーは、1941年生まれの現役のピアニストです。世界的に有名になるような演奏家は、たいてい幼少から突出した才能を示し、早くから外国留学などを経験し、ひたすら練習に励み、世界的に認められます。けれどそれに至る過程は、凡人には想像もできない過酷なものでもあるようです。彼は「人生の4つの要素」を次のように語っています。

 ・苦悩、喜び、成功、敗北。強烈な生命力がなければ、音楽とは
  いえません。

ピアニストのイングリッド・フジコ・ヘミングは、音楽が好きな方ならよくご存知で、演奏会に行かれたりCDをお持ちの方も多いでしょう。彼女については帰国後の1999年、NHKのドキュメント番組で紹介され、2003年にはその半生がテレビドラマ(主演・菅野美穂)にもなりました。私は両方とも見ましたが、その苦難の道のりには驚きの連続でした。ドラマの中でピアノの先生が、フジコにこう言います。

 ・特別の才能を持った人間は、それに見合うだけの努力が必要なんだ。

またドキュメント番組のなかで、フジコはこんなことをつぶやきます。

 ・私のピアノはここにあった。地位でも名誉でもない。
  たった一人でもいい。心にひびくピアノ。相手の心にひびくピアノ。
  それが私のピアノ。

秋の夜長に、好きな作曲家の曲目を好きな演奏家の演奏で聴くのは、私の楽しみです。それをBGMに好きな本を読めば、これ以上の贅沢はありません。人によっては、さらに上等のワインやスコッチ片手に…となるのでしょうか。苦労した人の言葉には滋養が含まれていて、お酒よりもっと私の体と心に沁み入ります。

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島津氏による奄美・琉球侵略400年 

2009/10/07 01:35
鹿児島県に住んでいると、同じ九州内とはいえ50歳まで住んでいた福岡県とは、風土も文化も明らかに違うと感じる場面にしばしば出くわす。南北に長い列島の日本だから当然なのだけれど、私の知らない歴史の一端が数百年昔のことでも、生々しい形でぬっと現われるから面白い。どの土地、どの地方にも固有の歴史があるということを知らされるし、興味をかきたてられる。

たとえば日本史で1600年の出来事といえば、「関が原の戦い」とたいていの人は即座に答えられると思う。ところが鹿児島の一部の人々から、今から400年前の1609年は何が起きた年? と問われても、ほとんどの人は答えられないだろうし、私も知らなかった。そのヒントは、ことし皆既日食で話題をさらったトカラ列島や奄美諸島に関係している。

答は「島津氏が琉球侵略をした年」。400年前の1609年旧暦3月7日、島津軍団3千人が琉球王国内の島々のうち、まず奄美大島に上陸。島津軍は火の出る棒(火縄銃)で島を攻めた。ついで徳之島、さらに沖永良部島を侵略し、奄美諸島を17日間で制圧。4月には陸海両方から首里や那覇に迫り、首里城は占領されて琉球王府の尚寧(しょうねい)王は捕虜となり、翌年、島津家久とともに駿府城に上がり、徳川家康と対面している。

それ以来、奄美諸島は薩摩藩の支配下におかれ、黒砂糖で薩摩藩の財政を下支えさせられる歴史をたどることになる。今年はその節目の400年ということで、沖縄や奄美など各地でその歴史を見直そうという記念行事が行われ、新聞などもそれに関する記事を載せている。

先日鹿児島市内で「島津藩による奄美・琉球侵略400年、奄美の未来を考える集会」があったので、興味津津な私も出かけた。鹿児島に住むようになって、トカラ列島や奄美諸島は鹿児島県なのに、文化的な面では琉球文化圏に分類される、そのねじれがどうも不思議だった。それはどうやら鹿児島と奄美、そして沖縄との間に歴史問題が横たわっていることが根底にあると、やっとわかってきた。

奄美諸島を含む琉球王国は、400年前までは日本とは別の国だった。だから奄美と琉球の人々にとって、1609年は天下分け目の戦いだったわけだ。かつて、日本は「単一民族」などと発言してひんしゅくをかった大臣がいたが、中国やベトナムのように数十の多民族には遠く及ばなくても、島国日本の祖先に、いろいろな民族がいたのは当然なことだと思う。

シンポジウムでは、陶芸家の15代沈壽官(ちん・じゅかん)さんの発言が心に残っている。沈さんのご先祖は慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)の際薩摩に連れて来られた陶工で、ほかにも樟脳、養蜂、刺繍などの技能を持った職能人も一緒だったという。陶工たちは奄美とは逆に島津氏に守られ、姓名も生活様式も変えてはいけないと言われた。他地域に渡来した陶工は日本に同化して名前も変えたが、自分たちはいまも沈や李のまま名乗っていると。

沈さんは韓国に留学したとき、日本での400年を捨てなさいと言われて反発し、日本の悪口を言われると腹が立った。ところが日本にいて韓国のことを悪く言われると、腹が立つ。そこが自分でも面白いと思う、と。また「日本人」の定義を書いた紙があれば見せてもらいたい、何をもって日本人というのか、日本人て一体何だろうといつも考えている、とも言われた。

沈壽官窯のある苗代川(なえしろがわ=現在の美山(みやま))は、司馬遼太郎の『故郷亡じ難く候』で紹介されて全国に知れわたり、出身がわかって就職や結婚ができなくなった人もいて、地元の人は困ったという。沈さんは言う。肩書きやお墨付きで生きるのではなくて、自分を1個の人類として生きていくことが大事だと。

集会は詩の朗読、基調報告、シンポジウムなどのあとにシマウタや新民謡の披露、そして会場に隣接する中央公園では奄美の人々による「八月踊り」も開催された。聞けば聞くほど奄美という島の苦難の歴史と、沖縄と鹿児島の間に埋没している奄美の現状がわかって、考えさせられた。その日はちょうど旧暦の8月15日、集会が終わり暗くなった外に出ると、十五夜のお月さまが東の空に美しかった。

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