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一樹の蔭、一河の流れ

プロフィール

ブログ名
一樹の蔭、一河の流れ
ブログ紹介
文芸サイト「文学夢街道」管理人の杉山武子です。
五十代からが人生楽しい!をモットーに、読書・映画・旅行など
日々の活動から思うこと感じることを、水曜日に書いています。
ブログ名は平家物語の「一樹の蔭に宿るも前世の契り浅からず、
同じ流れにむすぶも他生の縁なほ深し」に由来しています。
どうぞよろしく! 
(メールマガジン【僕らはみんな生きている!】で配信中)
 
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お酒と酔っぱらい

2008/11/26 01:04
私はお酒は嫌いではありません。私のいま住んでいる鹿児島では、お酒といえば焼酎のことです。私の生まれた福岡ではお酒と言えば清酒でした。二十歳になってお酒をたしなむようになりましたが、ビールが割とすいすい飲めて、量もいけることを発見しました。清酒やワインは付き合い程度です。やがてウィスキーやバーボンの味を覚えると、なんて美味しいお酒だろうと、たちまち惚れこんで大好きになりました。就職するとお酒の席の多さに驚き、お酒がコミュニケーションの手段となっていることを知りました。

焼酎に関しては、子どものころ周囲のおじさんたちが首のあたりを赤く酒焼けさせ、昼間からプンプン焼酎の匂いを振りまいて歩くのを見ていましたから、焼酎=おじさんの匂い、という先入観がしみついていました。ところが50歳になって鹿児島に住むことになり、本格焼酎の味を覚えました。あの独特の匂いに慣れてしまえば、お湯割り良し、ロック良し、自分の好みに割って飲めるし翌日に残らないことも発見して、好きなお酒になりました。

私は子育ての間も働いていました。そのためたとえ歓送迎会があろうと、忘年会新年会があろうと、主婦で母親の私は酔うまで飲むことはありませんでした。なぜなら翌朝、保育園や学校へ行く子どもがいるので、酔ってなどいられないからです。帰宅して子どもたちを寝かしつけ、翌日のお米を洗ったり子どもたちの持ち物を点検したり、自分の出勤の準備もあります。

それに比べると、男性は翌日朝ごはんを炊くわけじゃなし、子供の世話をするわけじゃなし、朝早く洗たくするわけじゃなし、飲むだけ飲んで酔っぱらって帰宅して、寝るだけ。別に羨ましいとは思いませんが、へべれけになるまで飲む人を見ると、人間失格ではないかと内心軽蔑したい気持ちになります。美味しいお酒は、楽しく、酔っぱらわない程度に飲むのが正しいお酒の飲み方であって、酔っぱらわないと飲んだ気がしない人は、だからいろんな病気のおまけがつくのだろうと思うのです。

かつての私の同僚のダンナ様は、深夜酔っぱらって帰宅しても必ずお風呂に入る人だったそうです。湯船につかるとそのまま眠りこむので、溺れないよう同僚はお風呂の栓をポンと抜き、そのままほったらかし。ダンナ様はいずれ風呂桶の中でガタガタ震えて目がさめるから、悪くしても風邪を引く程度。溺れて死ぬよりはましだから、と同僚は平気でした。でもそのダンナ様は、退職後数年後に病気のため亡くなりました。

ある年親類で集まったとき、お酒の上の失敗談が出るわ出るわで、その1つに50年ぐらい前の、まだ往来に車も多くないころの話が面白かった。ある酒好きの人がいて、したたか酔っぱらって自転車で帰宅中、工事中の大きな穴に自転車ごと落ちた。穴の中でもがいていると、また別の酔っぱらいが同じ穴に落ちてきた。驚いてよく見ると、何と二人は兄弟だった、という漫画のような本当の話に一同大笑いでした。

最近聞いた話では、酔っぱらって他人の靴を履いて帰った事件がありました。後の人は帰るとき自分の靴がないので、お店のスリッパを履いて帰ったとか。先に人の靴を履いて帰った人は、翌日になっても指摘されるまで気づかなかったらしい。でもそれから1ヵ月もたたないうちに、その話題の人がまた人の靴を履いて帰ったことが発覚したらしい。泣く人、笑う人、クダを巻く人、酔っぱらいにもいろんな癖があるようです。

それにしても、なぜあんなに正体不明になるまで飲むんでしょうか。もうお酒の味もわかってなさそうなのに、お店の人はどんどんつぐし、それをまたうわばみのように飲んで、ろれつも変で記憶も飛んで、でもまだ飲んでいる。あんな状態が週に何度か続けば、脳細胞もダメージを受けて自ら痴呆状態を作り出しているとしか思えないのに…。酔っぱらいを見るたびビデオにその姿を撮って、本人のしらふの時に見せてあげたいおせっかいな気持ちになります。

かつて私も、いろんなお酒を飲んだせいで二日酔いをしたことがありました。翌日仕事なのに、その気分の悪いこと。こりごりでした。その気分の悪さは、私の経験ではつわりの症状と良く似ていました。ただ違うのは、つわりの場合何か食べれば症状は治まりますが、二日酔いは何も食べられないことです。二日酔いするまで飲むのは愚の骨頂と、それ以来肝に銘じていますが、人には強いて言いません。のん兵衛に言っても無駄ですし、飲む人にはそれなりの理由があって命がけで飲んでいるのでしょうから。

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されど強き女たち

2008/11/19 02:55
NHK大河ドラマ「篤姫」もあと4回を残すのみになった。今回私としては数年ぶりに、最初から欠かさず見続けている。歴史上の事実である史実は必ずしも真実とは言えないが、史実をもとに書かれた小説を原作とし、さらに一部創作をも加えて制作される大河ドラマ。「篤姫」の場合女性を主人公に据え、家族愛や夫婦愛の物語を織り込みながら幕末の動乱が描かれる。人間関係がわかりやすいのもよかった。

前回だったか、天璋院(篤姫)が亡き夫13代将軍家定の生母本寿院と、亡き14代将軍家茂の妻和宮の両者を従えるようなふるまいをしているシーンがあった。それを一緒に見ていた私のパートナーいわく「天璋院は和宮より立場は上だとしても、家定の母親よりなんで威張っているんだろう。順番からいえば本寿院が上ではないか」と、素朴な疑問を発した。

それは天璋院が主人公だから、という理由では説明できないので、さっそくなぜ本寿院より天璋院のほうが偉いのかを、NHKのサイトで調べてみた。それは将軍の正室か、側室かの違いによるという。本寿院は将軍家定の生母ではあるけれど、家定の父(12代将軍家慶)の正室ではなく側室だった。そのため正室との身分の差は大きく、家臣の一人という立場らしい。

それに比べると、天璋院と和宮はどちらも13代と14代将軍の正室(御台所=みだいどころ)なので、こちらは正真正銘の姑と嫁の関係になるらしい。そういえば以前の場面でも篤姫と本寿院の初対面のとき、篤姫が上座にいて本寿院には敷物もなかった。天璋院と和宮の初対面のときも天璋院が上座で、皇女和宮には敷物もなく、お付きの面々が憤慨していた場面があった。

それはさておき、篤姫、和宮といいい、将軍家定・家茂・慶喜といい、若者たちばかり。ドラマでは背の高い家茂(松田翔太さん)が若い天璋院(宮崎あおいさん)を「母上」と呼ぶときにちょっと違和感があったが、史実では家茂12歳のとき天璋院22歳が養母となっているから、やはり若い養母だったようだ。

愛情や好みに関係なく、政治の手段として結婚相手を決められていた江戸時代の将軍やお姫様たち。ビデオや写真もない当時、将軍の周辺ではお世継ぎ問題や勢力争いもからみ、どんな女性が嫁いでくるのか興味津津だったろう。まして皇女ともなればなおのこと。幕府の要人たちは和宮の情報を集めていたようだ。その証拠ともいえる書状(彦根城博物館蔵)が残っているそうだ。

それは昨年、篤姫の勉強会でもらった資料の中に紹介されていたもので、関白九条尚忠の家臣島田龍章(たつあき)が和宮の「御容貌」について調べ上げ、それを老中久世広周(ひろちか)へ報告したものらしい。島田は皇女和宮の降嫁に際して幕府のために斡旋につとめた人物という。全部で12項にわたる容姿の詳細な箇条書きのうち、特徴的なものをいくつかあげると、

 一 御色真実御白キ方
 一 御顔中高にして不長不丸…
 一 御口 至テ御小キ方
 一 御鼻高ク御鼻筋モ十分ニ通り…
 一 御眼大キク鈴形…
 一 御歯並能揃し方

という具合で、皇女和宮は年齢相応(当時18歳)の中肉中背、色白く中高なお顔に鼻筋も通り、お口は小さく、目は鈴形、歯並びもよく揃い…と、美人の条件が揃った方であったようだ。皇女という高貴な身分から将軍の妻として男子禁制の大奥に入られるので、幕臣たちがその姿や顔を直接見ることなどほとんど不可能と思われる。でも知りたいので、密かにいろいろな情報網を動員して調べたのだろうか。

それにしても「篤姫」では、多くの男性たちが世を去った。篤姫の実父忠剛、老中阿部正弘、夫の家定、養父の島津斉彬、家茂、坂本龍馬…小松帯刀もやがて病死する。それに対して彼らの母や妻たち、天璋院、静寛院宮(和宮)、本寿院、その他忠剛の妻お幸、帯刀の妻お近、龍馬の妻お龍、篤姫付き老女の幾島等々、また大奥に住む千名ともいわれる女性たち。彼女らが江戸から明治へと時代をまたいでしぶとく生き延びていくさまが、あと4回でどのように描かれるか楽しみだ。

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紅葉狩

2008/11/12 00:31
今週の初めに1年に1回の恒例となった、実母を連れての1泊旅行をした。福岡県久留米市郊外に住む実母は、現在83歳でひとり暮らし。ことしの母は春から調子が悪く、むかし患ったことのある肝炎がぶりかえしたと分かり、治療に通うなど体調は万全ではない。けれど本人の希望でひとり暮らしをしているので、ボケてはならじと気を張って生きている。

母のご近所には、娘はなるべく手元に置きたいという考えの親が多いのか、娘のほうが離れたくないのか、結婚しても親の近くに住んでいる人が多いらしい。そのため娘、孫たちとの交流もさかんなことを、母はひごろ同年輩の女性たちから聞かされているらしい。しかし私の母はちょっと変わった人で、娘三人を全部遠くへ出し、親を頼るな実家を頼るなと言い続けたので、私たち三姉妹はそれを律儀に守って、結婚しても仕事を続けてめったに実家に帰らない。

しかし長女の私が50歳で仕事を辞めて専業主婦になり、一番時間ができたので年に1回、母をつれて1泊旅行をするようになった。母が行きたいと言うところへ連れて行くが、その候補地はたいてい近所の人から、娘や孫が車に乗せて連れて行ってくれた、という自慢話で聞いた行先のようだ。近場に娘が住んでいない母は、内心悔しさ半分で聞いているのだろう。

その母の今年の希望は、大分県の九重(ここのえ)町に完成して間もない吊橋だった。「標高777mの天空の散歩道 九重“夢”大吊橋」のキャッチフレーズのとおり、九酔渓という渓谷をまたぐ吊橋で、高さ173メートル、長さ390メートル、歩行幅1.5メートルの、人道専用橋としては日本一の規模という。さっそく行って来た、という話を近所の人から聞いてそこに決めたらしい。

足腰が弱ってはいるが、何とか体調も整えた母とJR久留米駅で合流。そこから列車に乗って、豊後中村駅下車。細い山道をくねくね走る路線バスに約45分揺られ、湯坪温泉のとある民宿に着いた。私がこじんまりした民宿をインターネットで探して予約していたのだ。屋根付きと露天の2つの温泉があり、敷地内の畑で収穫した野菜を食事に出してくれるという。行ってみれば、70歳近いと思われるご夫婦の経営で、野菜畑の手入れ中だった。

前日の土曜日は若い人たちで賑わっていたというこの宿、日曜日のこの日は私たちだけの宿泊だったので、お風呂も貸切でゆっくりのんびり。動作がのろくなり、食事も少量あればいい高齢の母のために、今回は山あいの温泉郷の小さな民宿にしたが、料理はおいしく部屋もきれいで、しかも低料金。知人の家の離れに泊めてもらったような、静かな良い宿だった。

翌朝路線バスで吊橋まで行く予定が、宿のご主人が農協に用事があるついでに、吊橋まで送ってくださった。いよいよ目的の吊橋だ。まだ9時半なのに駐車場には大型観光バスがずらりと並び、乗用車もぎっしり。道路には駐車待ちをしている車の列。入場券500円を買って吊橋を渡る人の行列に加わる。天気は上々風もないけど、吊橋は歩く人の動きが伝わるのか、けっこう左右に揺れている。

しかし吊橋を進むにつれ、眼下には見渡す限り渓谷を埋め尽くす見事な紅葉。錦繍(きんしゅう)とはこんな風景をいうのだろうか。母も私も、温暖な九州の平野生まれなので、紅葉狩(もみじがり)とは無縁に育った。けれど渓谷に架かる橋上から360度見渡せる紅葉は息をのむ美しさ。心躍るものがあった。手すりにつかまり歩く母も、来て良かったと感激している。ゆく秋の紅葉を心ゆくまで堪能して、さて帰る時間になった。

移動には公共交通機関を使いたい私。母を椅子に休ませJR駅まで行くバスを探したが、あれだけ広い駐車場にバス停はなく、はるか数百メートル先だという。時刻表を見てこようと歩いたがあまりに遠いので諦めてタクシーで、と思った矢先、待機していたバスの運転手さんが私に気づいて「もうすぐ出ますが、待ってますから」と何やら必死。CO2削減と言いながら、公共交通が何でこんなに冷遇されるんだろうと疑問を感じながら急いで引き返し、母をせかせて歩くバス停までの遠い道のり。

民宿のご主人も、かつてのような泊り客はないと話された。新しい観光名所ができても、高速道路の整備で九州一円からマイカーで来て、泊まらないで帰る。駐車場は立派でもバス停は遠い。運転手さんは私たちが乗らなければカラで走ることになるからと、待ってくれた上に駆け寄って荷物まで持ってくれた。そして駅までの45分間、乗客二人の貸切バスになり、運転手さんのガイドで楽しく山道を下り駅に届けてもらった。バス賃の計1,140円は、ガソリン代の足しになっただろうか?

  ※「九重“夢”大吊橋」の写真はこちらのサイトからどうぞ
   http://www.coara.or.jp/~kujuaid/contents/turibasinosiki.html

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50マイルよりゼロ・マイル

2008/11/05 00:08
1マイルの長さは約1.6キロメートルだから、50マイルは約80キロメートル。何の数字かといえば、不倫の相手を選ぶには自分の生活地点から50マイル以上離れた人を相手にしなさい、ということらしい。これはある雑誌の新刊本案内に載っていた話。それは既婚者のために書かれた不倫の「指南書」で、人はなぜ不倫するのかを真面目に考察しているらしい。ただしアメリカの本で、日本語訳はまだないようだ。

不倫と書いて思い出したが、NHKテレビで「英語でしゃべらナイト」という番組がある。その中でアメリカ人のレギュラーが「浮気はアメリカの国技です」と言っていた。冗談だろうけど、不倫の指南書を出版するのは需要があるからだろう。結婚は法的な契約でもあるから、この本は結婚を企業同士の独占契約に置き換えて、わかりやすく解説しているそうだ。

その契約内容とは、契約後サービスや商品の質が落ちても契約放棄してはならない、契約期間中生じた財務上の不利益には法的責任を持つ、独占契約を放棄する時には会社の資産の半分を相手方に譲渡する、と非常に厳しい。この契約を保ったまま別の会社を物色するのが不倫。不倫という言葉は私は好きではないけれど、とりあえず使って話を続ける。

本の内容はかなり具体的で、「不倫相手の見つけかた、家庭内での注意、不倫相手との接しかた、不倫の終らせかた、不倫がばれた時のエチケット」、さらに具体的なアドバイスとして「その場、その場に自分のエネルギーを傾けること」が重要で、家庭では「不倫の相手のことは忘れすべてを家庭につぎこみ、不倫相手と一緒のときはその相手に集中することが大切」と。何だか笑えてくる涙ぐましい指南書だ。

以前、私より20歳ほど年長の女性の知人がいて、彼女から上手な浮気の仕方の話を聞いたことがある。彼女は放送局などに勤めたあと、社員教育やマナー教室などの事業を始められた経歴の持ち主。あねご肌で面倒見がいいので、会社勤めのとき彼女のところへ、不倫中の男性が数多く相談にやって来たという。そんな悩める男性諸氏に、彼女は何とアドバイスしたのか。その話は印象的だった。

妻ある身で不倫関係に陥り、外泊してそこから会社へ出勤したりしていると、たいていの男性は体調を崩すそうである。だから外泊しても、一度は必ず家に帰ってから出勤しなさいよと。なぜなら不倫相手と一緒にいる間、男性は(女性も?)誰かに見られはしないかと常に緊張し、好きな相手に嫌われたくない、いいところを見せたい一念から、オナラもゲップも我慢し続ける。翌日そのまま会社へ直行すると、緊張続きで体調がおかしくなるのだそうだ。私は「へェ〜男ってそんなものなんだ」とオナラの我慢の話を面白く聞いた。

しかし今になって思い返してみると、あれは不倫を成功させないための巧妙なアドバイスだったようにも思える。ちなみに不倫の「指南書」には、不倫の相手と別れる方法として、「結婚している相手ともう一度真剣にやりなおしてみたいと、優しく諭すのが有効だ」と書いてあるそうだ。統計上では、不倫相手と結婚できるのは5%のみで、95%は途中で関係が終るものらしい。

だから5%を目指したいのであれば、50マイル離れた彼女・彼氏を相手にすればうまくいく、というガイドブックでもあるのだろう。かつて日本では恋愛自体が「事件」だった。恋愛が自由になってからも、身分や民族の違いや戦争が外圧として存在していたので、恋愛はいっそう燃え上がった。だから恋愛ものの映画もドラマも小説も、多くはその構図の中で描かれた。

平和で自由で身分的な縛りもなくなったいま、恋愛は事件ではなくなった。だから恋愛をより際立たせるための味付けとして、病気や不倫関係がドラマや小説の展開に欠かせない味付けとなっている。平凡では絵にならないということだろうか。確かに「50マイル」離れた相手との恋愛のほうが、危険もスリルも刹那も備わっているだろう。

しかし現実には同じ屋根の下、つまりゼロ・マイルの関係にある平凡な夫婦が、世の中の大多数を占めている。子育てを終え、再びカップルに戻った夫婦が、どんなふうに恋愛関係を成熟させていくのか。そのほうがよほどドラマチックだと私は思っている。国や社会、といっても結局はその最小単位である家族の、そのまた核である夫婦関係が一番大切で、この関係を何十年と「平凡」に続けていくことのできる努力と忍耐力こそが、何にも増してすてきな才能ではないだろうか。

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蝶とトンボの話

2008/10/29 00:12
もう最近の巷では、テレビも新聞もあまり見たくないと思うニュースのオンパレード。洪水のような情報の、そのまたあぶくがのど元まで迫ってきて、息苦しいやら気分が悪くなるやら。別に知りたいと思わない情報まで無理やり目や耳に押し込まれる。そんな世事に毒され一喜一憂するなんてまっぴらご免。本を読んだり好きな音楽を聞いたりで、自己防衛するしかない。

最近私が読んだのは「野良の昆虫記 その(二) 蝶とトンボ」と題した随筆。これを書いたSさんは私の知人で、農業のかたわら小説を書いている男性だ。年の頃は70代と思うが、Sさんも私も日本農民文学会という団体の会員で、年に一度、東京で行われる総会で顔を合わせる同人仲間。私は農民ではないけれど、会のメンバーの多くは農業をしながら小説や詩を書き続け、会の雑誌に発表している実力の持ち主が多い。

Sさんの随筆は、私たちがふだん何気なく見て季節の移り変わりを感じさせられる蝶とトンボの関係を、農業者の視点から書いてある。なかなか面白く読んだので、この短い随筆の内容を紹介しながら、蝶とトンボの関係から見えてくる食物連鎖、さらには人間という生き物のことを考えたい。

Sさんの随筆はこう始まる。「昔から詩歌にまで歌われ親しまれてきた蝶とトンボだが、これを敵味方に分けなければならないのだから、農業とは因果な職業だ。」何が因果かというと、作物を生産する農民にとって、美しい蝶は害虫で、トンボは益虫なのだそうだ。どちらも自由に空を飛び、相手を探して結婚して卵を産むところまでは同じ。ここから先が問題という。

水中に産卵し幼虫も水中で生活するトンボは、農作物に被害を及ぼさない。一方、餌になる葉っぱに産卵する蝶の場合、孵化した幼虫はその葉っぱを食べて成長するから、葉っぱを生産している農民にとっては害虫になる。葉っぱぐらいで害虫よばわりとは、と考えるのは農業をしない人の発想だろう。

「害虫か益虫かは草食か肉食かで決まる。草食の虫は農作物を人間と取り合うから害虫なのだ。」とSさんは言う。あのきれいな蝶は、農家の人が丹精込めて作る野菜が大好物。しかも食べる葉っぱは決まっているそうだ。モンシロチョウはアブラナ科が大好きなので大根・白菜・キャベツなど。アゲハチョウは柑橘類、黄アゲハはセリ科の三つ葉や人参が大好き、という。

草食の蝶に対して、益虫はトンボだけではなく、ハチ・クモ・カマキリなどいずれも強面(こわもて)ばかり。彼らは肉食なので害虫を捕えて食ってしまう。農業をしていない私でもずっと前に、ハエトリグモがハエを捕食するようすを見たことがある。人は見かけに・・・じゃなかった虫は見かけによらず、農業者というか人間にとって益虫の場合もあるようだ。

地球上の命あるものみな太陽のエネルギーの恩恵を受けながら育つ。Sさんは言う。植物を1とすると、それを食べる虫は2。その虫を食べる虫は3だ。この考え方でいうと、植物も肉も食べる雑食性の人間は2と3が当てはまる。さらにアシナガ蜂の巣を襲うスズメ蜂や、アリの巣を襲う別のアリがいて、それらは3を食べる4であるという。共食いしない人間は本来2と3であるはずなのに、歴史上4に該当する者が生まれてきてしまった、とSさん。

人間の4とは、2と3の上に存在する王様や天子・将軍・殿様などと称される人、またアメリカの奴隷制度や、日本にも終戦直後まであった小作人の収穫物の6割以上を持っていく地主、などがそれだという。ある夏の日、Sさんが農作業の合間に畑の隅で休んでいると、蟻が別の蟻の巣を襲い、蛹(さなぎ)の入った袋をくわえて巣から出ていく行列を見たそうだ。Sさんの随筆は、次のように終わる。

  「えーい、この野郎」
  襲撃にむかう蟻の数匹を踏み付けて立ち上がったが、
  地球の続く限り虫たちの四はなくならないだろうが、
  人類は進歩していく。人の上に人を作らずに向かって――
     ※引用は 季刊『農民文学』第283号より

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記憶の不思議

2008/10/22 02:18
最近テレビで黒澤明監督作品の映画が連続して放映されているが、つい先日「天国と地獄」を夫と一緒に観た。ずっと以前にもテレビで最初から最後まで観ているはずなのに、はっきり記憶に残っているのは、ゴミ焼却場の高い煙突から吐き出される煙が、白黒映画なのにそこだけ赤く染まる印象的な場面だけ。その前後のストーリーも展開もほとんど覚えていないのには我ながら驚いた。

ところが一緒に観ていた夫も、映画が進行するにつれ、こんな場面あったかなあと頼りない。ついに、あの煙突の煙の場面しか記憶にないと発するにいたって、私ら二人の脳ミソもいよいよ縮みつつあるのか、はたまた記憶装置の不具合なのか、揃いも揃ってあやふやとは。日本映画史上屈指と言われるサスペンス映画を観ているのに、私らの現実のほうがよっぽどサスペンス。

印象的なことが記憶に残るというのは、実体験でも良くある話だ。私の父は私が生まれる前から建築現場の飯場暮らしで、2週間に1度しか帰宅しない生活だった。それは私が10歳のとき祖父が亡くなるまで続いた。舅や姑や小姑に仕えて何かと気苦労も多い若い母は、気が立つと、不平不満のはけ口を長女の私へぶつけることがあった。

そんなある日、母と姑との間で争いがあり、盾つけない母は苛立っていて、何かの拍子に怒って私の頬をぶった。母からぶたれたのはあとにも先にもそれ1回だったので、私はそのことを恨んでしっかり記憶にとどめていた。いつか機会が来たらこのことを母に言ってやろうと、30年ぐらいたってその話をすると、母は全然覚えていなかった。そんなことするはずがない、とまで言いこわる。

二人いる私の娘たちは、2、3歳ころ、あまりに我儘で聞き分けのなかったとき、怒った私からお仕置きの意味で、夜、ドアの外の暗闇におっ放り出されたことがある。当然「ゴメンナサイ、あけてー、ゴメンナサイ」と戸を叩き泣き叫んだけれど、10分くらいは無視していた。そんな経験もそれぞれただ1回きりのことで、きつく叱った記憶もあまりない。

そんなふうに私の子育ても無事終わった。と、思い込んでいたら長女が最近、思いもかけないことを言った。私に1度だけ、ぶたれたという。え? そんなはずない。私は母にぶたれた経験から、自分の子どもには絶対そんなことしないと、心に誓っていたのだからと主張したものの、「覚えてないの?」とあきれられる始末。けれどほんとに記憶にないんだもん。

娘が言うには「お母さんはその時とっても怒っていたから、私が何かよほど悪いことをしたのだと思う」とフォローしてくれ、ぶたれた部屋まで教えてくれたが、それでも全然思いだせない。そんな重大なことなら覚えていそうなのにと、自分の記憶もいい加減なものだとそのとき気がついたのだ。踏まれた足はいつまでも痛いとはいうけれど、踏んだほうは・・・。

もちろん自分の行動を逐一覚えておくことなんて、できない。現に、むかしのことはさておき、3日前にしたこと、食べた物、話したことすら忘れている。それは記憶をしまっておく容器があり容量に限りがあるとしても、あるものだけがそこに収納されるのはなぜだろうか。記憶するしないは何か独特のメカニズムがあるのかもしれないが、私には解らない。

反対に、記憶のいい人というのも善し悪しだ。身内の関係ならばともかく、久しく会わなかった人から、私の全く覚えてもいないことや話したことなど、あのときあなたはこうだったとか、こう言ったなどと懐かしげに言われると、思わずへぇと内心どっきりしたり赤面したり。それって本当に私? と言いたくなるような私が、その人の中にずっと生きていていたのかと思うと、思わずゾーッ。

私は子どものころから日記を書く習慣があって、50代から1冊で5年使える「5年日記」に毎日書いている。一日が6行と少ないので、1分もあれば書ける。今日の分を書く時、その上の欄は1年前なのでつい見てしまうと、それを手がかりに記憶が蘇る。だから何でも覚えておく必要はないと納得する。けれど相手に植え付けた私の記憶ばかりは、どうしようもない。

会った人にはなるべく良く思われたいけれど、その人の記憶をどうこうすることはできない。だからあまりよけいなことはしゃべらず、嘘もつかず、せいぜいさわやかな印象が相手に残ればいいなどと、虫のいいことを考える。モノ書く私は、人の記憶に残るような作品が1つでも書ければそれでいい。生身の私は、いつかどこかへさっぱり消えうせるのだから。

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21世紀農場 谷口巳三郎先生に聞く

2008/10/15 01:35
私は現在、鹿児島大学の近くに住んでいる。その鹿児島大学では「国際協力農業体験講座」が開講されていて、毎年秋に講座の学生さんたちが受講の仕上げとして、タイとミャンマーへ2班にわかれ10日間程度の研修に出かける。講座名が「国際協力農業体験」というだけあって、21世紀農場や高地少数民族の村に滞在し、農作業や村の人々との交流が行われている。帰国後は毎年学生たちによる「帰国報告会」が行われる。

現在のタイやミャンマーなど、政情不安定な国に学生が行ってそれなりの研修ができるのは、しっかりした受け入れ側があってこその話。ミャンマーでは佐賀市に拠点を置く「地球市民の会」、タイでは谷口巳三郎先生の「21世紀農場」が毎年学生を引き受けておられる。講座開始から今年は10周年記念ということで、先日帰国報告会に合わせて講演やシンポジウムが開かれ、私も聞きに出かけた。

というのも谷口先生がタイから来られて、講演されると知ったからだ。谷口先生は大正12年生れの今年85歳。体重45キロの痩身ながら背筋はシャンと伸び、筋金入りとはこういう人だと一見して理解できる風貌。以前にも書いたことがあるが、谷口先生は熊本県立農業大学校教官を定年退職の翌年、退職金半分とスーツケース1つ持って、農業技術指導と農村青少年教育の大志を抱いて1983年2月単身タイへ移住。

以来25年、奥さんは日本で募金活動を、谷口先生は個人のプロジェクト農場として、北タイのチェンマイをふり出しに農場適地を求めて7度場所をかえ、1991年現在地のパヤオ県サクロー村に「21世紀農場」として定着。25ヘクタールの農地には果樹、水田、畑地、養漁場、竹林等があり、堆肥を作り、宿舎や学生寮を備えて、完全有機農業と循環型農法で農場を運営されている。

当初、タイ農村の青年少年たちを寮に住まわせ農業後継者の育成から始まり、現在はエイズ患者・家族支援、少数民族の教育・農業支援、植林による緑化活動などを行い、日本から毎年農民や大学生・高校生・中学生など年間150名ほどを受け入れ、研修もされている。鹿児島大学の学生たちもその一部で、生きる目的が見つからず日本で漫然と学生生活を送っていた学生が、研修中に、学ぶという態度から実践するということへ劇的に変化する、と聞いた。

タイでやってきたことは、誰に頼まれたのでもなく、誰に来てと言われたのでもなく、何かバックがあったのでもなく、常に「ねばならない」という信念でやってきた、と谷口先生。現在、21世紀農場で育ったタイの教え子たちが、高地民族の子どもたちの寮や研修農場を開設したり、21世紀農場の活動はタイ以外にラオス、ミャンマー、カンボジアにも広がっているそうだ。

また、縄の作り方は20年前から、タイには米を入れる竹製のザルがないのでザルの作り方を15年前から指導しているが、とうとう定着しない。異文化の中に新しい文化を移入するのはそれほどに難しい、という話もあった。この25年の出費を計算すると、2億7千万円のお金をタイの農村のために使った。それは日本の2つの団体の募金によるもので、タイからはお金は全然貰っていない。でもお金を持って行けば成功するかといえば、そんなことはないと谷口先生。

なぜ谷口先生は退職後に残る人生を投げ打って、そこまでされるのか。いかに信念が強く自己実現の道を邁進するといっても、何が谷口先生をそこまで駆り立てるのだろうと私は思っていた。今度聞いた話では、谷口先生は学徒動員で、爆弾と片道燃料を積んだ小舟で敵艦に体当たりする訓練をうけ、フィリッピンに送られる途中2度敵の魚雷攻撃を受けた。しかし1度は的中したものの不発弾で、2度目も難を逃れ、生き残られたという体験をお持ちだった。

だから武力で解決しようとする限り、平和は来ない。日本のような法律を世界で作ればやっと平和が来る。自分はそれを農業を通して実践してきた、と。研修に行った学生が谷口先生の言葉を紹介した。タイの農村にあまりにもゴミが散らかっていて戸惑っていると、谷口先生は「汚いですね。全部拾ってはきりがない。私は1日10拾っています」と。つまり自分のできることから、国際協力でもボランティアでもすればいいのだと、学生は理解していた。

コメ・トウモロコシ・小麦の三大穀物の収量は1988年にピークになり、それ以上は望めなくなっている。それなのに世界の総人口は66億人余で毎年爆発的に増えている。いま地球上には10億の餓えた人がいる。その中を若い皆さんは生きていかなければならない。日本は食料の大半を世界中から輸入している。だからメコン川流域でコメを作らせアジアに広げているのは、彼らが貧しいから助けるのではない。日本のためである。私の志はまだ50%しか達成していない、と。谷口先生の志の深さは半端ではない。

 ※谷口「21世紀農場」支援の2つの団体、他
     「タイとの交流の会」 http://www.tt-p.tv/taniguchi/
     「北部タイ農業振興会」
      蓮華院(熊本県玉名市)    

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