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一樹の蔭、一河の流れ

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ブログ名
一樹の蔭、一河の流れ
ブログ紹介
文芸サイト「文学夢街道」管理人の杉山武子です。
実りある60代をめざして、読書・映画・旅行など日々の活動から思うこと感じることを書いて、水曜日にアップしています。
ブログ名は平家物語の「一樹の蔭に宿るも前世の契り浅からず、同じ流れにむすぶも他生の縁なほ深し」に由来しています。
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生後43日目から…

2017/03/01 23:17
出産から45日目の2月末日まで産後の娘のサポートをして、鹿児島市の自宅に戻った。長いような短いような日々を、赤ん坊の沐浴の補助・炊事・洗濯・掃除・3歳児(孫)の保育園への送迎、食材の買い物等々、主婦業に明け暮れた。いざ終ると名残惜しいような気もしたが、奉公が終わったような、解放された心境にもなった。

娘ではなく息子をもっていたら、ここまで産後のサポートをしなくてもいいのかもしれないが、娘だと、やっぱり産後は赤ん坊の世話だけでも大変だから、早く体力を回復してほしいと親心が働く。産後の体が完全に元に戻るのには6カ月はかかる。孫も可愛いけれど、わが娘も可愛いのである。

2.5キログラムと小さめに生まれた孫だったが、もう頬っぺたはふくらみ、お尻や太ももにも肉がついて、抱き上げるときにはずっしりと重くなった。頭を片手で支え、もう一方の手でお尻をささえて、ヨイショという感じで抱き上げる。おっぱいを飲んで、泣いて、出して、眠って、ひたすらその繰り返しが続く中で、赤ん坊は成長していく。

その成長ぶりを見ていると、人間の進化の過程を凝縮して見ているようだ。目に見えるものを追い、音のするほうに首をめぐらし、オムツが汚れれば泣いて知らせ、新しいオムツに替えてあげると気持ちよさそうにすっきりした顔をしてみせる。抱っこしている人の顔を、じっと見つめる。

ほぼ3時間おきの授乳間隔が、夜の間は4時間くらいあくようになり、これが5時間ぐらいになれば、母親も少しはゆっくり眠れるようになるが、生後1カ月ほどは、本当に眠る間もないほど母親は赤ん坊にかかりきりだ。偉そうな顔してテレビに出ている人たちだって、みんなオムツをして泣いて、母親に世話を焼かせてきたんだなと思って、彼等を眺める。

わたし自身も2人子どもを産んで育てたが、陣痛の苦しみとか生まれてからの大変さとかは、あんまり覚えていない。たぶん赤ん坊の成長の喜びのほうが大きくて、辛さとかは忘れるようにできているのだろう。わたしが赤ん坊を育てていた40年ほど前は、布おむつが主流だった。紙オムツもあったが、2人とも布おむつで育てた。ベランダには放射状に広がった丸型の物干しに、昼夜おむつがはためいていた。

おむつ1組は2枚を組み合わせて使い、保育園へは5組ほど持って行った。それに着替えなど赤ん坊のものだけでも大きな荷物になり、自分の荷物もある。それを持ってさらに赤ん坊をだっこして、満員の通勤バスに乗る。ある日「もうこんな生活は嫌だ!」と切れた。娘のお迎えを夫に頼み、夕方から自動車学校に通って免許を取って、車で通勤するようになった。

保育園といえば、思うことがある。わたしはフルタイムで働いていたため、2人の娘たちは0歳児から保育園に預けていた。もっと厳密に言えば生後7週目から無認可保育園に預けて、そして次の4月から認可保育所に入れるというパターンだった。当時、事務職の女性は産前・産後、各6週間と法律で決まっていたからである。

ただし産前については強制ではなかったため、年度末の忙しい時期と臨月が重なり、ぎりぎりまで働いて、産休に入って1週間目に出産するはめになった。そのとき生まれた子が、今回サポートした娘である。わたしの娘たちも仕事を持っているが、産休のあとは育児休暇を取って、4月の認可保育園の入所まで自宅で子育てに専念する。そこが40年前のわたしと大いに違うところで、働く女性をとりまく環境は大いに進歩したと感じている。

わが娘たちは産後6週間=42日間は家に居て、首もすわらぬ43日目から無認可保育所へ。同時にわたしは仕事に復帰した。当時外で働く女性たちはみなそうだった。わたしが産後の娘のサポートを精一杯したいと思うのは、法律で決まっていたこととはいえ、生後43日目から自分の手で十分に面倒をみれなかった娘たちへの、せめてもの罪滅ぼしの気持ちもあるのだ。

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3歳児

2017/01/18 14:31
昨年秋の誕生日で3歳になった孫に、先日、妹が生まれた。この世に誕生してほんの数日の、嬰児(みどりご)だ。ただいま無職のおばあちゃん=わたしは、3歳児孫の世話と産後の娘の支援のために、いま福岡市博多区の娘夫婦宅に滞在している。


孫は保育園に通っているので、朝8時頃に起きて、食事をして、着替えて、9時頃には園まで歩いて行く。夕方はいつもより早めに迎えに行って、バスで数停先の病院へ、ママと赤ちゃんに会いに行く生活が続いている。あと数日すれば週末にはパパさんが戻るし、ママも退院するので、おばあちゃんとしてはヤレヤレと一安心だ。

パパ・ママから、お姉ちゃんになったのだから、とか、おりこうさんにしていたら、ご褒美を買ってあげるよ、なんて言い含められて、ともかくおばあちゃんとの生活が静かに始まった。女の子なので、手に負えないほど走り回ったり、危ないことはしないので、体力的には楽である。

割と聞き分けがよくて我慢強いけれど、その分、たまったものがワーッと出たりするとか、孫の意見を聞かずに事を進めると大変だから、行くか戻るか、イエスかノウか、先に決めさせてから行動したほうが、割とすんなり物事が進むとパパさんのアドバイスもあった。

3歳2ヵ月とはいえ、こちらの話もだいたい理解してくれるし、トイレも自分でできる。着替えもちょっと手を貸してやればよく、靴下も靴も自分で着脱したがるので、確認のチェックをして終わり。その日に着ていく服や、大好きなアニメのDVDも自分で選ぶ。3歳児はけっこう出来るのだ。

赤ちゃんとは何度も対面している。ガラス張りの向こうの部屋には、ママの名前と生年月日・体重・身長などを書いたプレートの場所に、赤ん坊がずらりと並んでいて見分けがつくようになっている。眠っていたり、泣いていたり、手足をバタバタさせていたり、新しい命を感じることができる。

どうして赤ちゃんは泣いてるの? どうして赤ちゃんはアンヨできないの? 等々、孫の「どうして?」の質問攻めが始まる。赤ちゃんたちの動きに一喜一憂していた孫も、帰る時間が来た。ママの言いつけ通りに、おとなしく防寒用の上着を着て、スリッパを靴に履き替え、病院の玄関から数歩外に出た。

ところがそこで立ち止まって、動かない。「行くよ」と言っても首を振る。ここで強いことを言うと、むくれて事態が悪化するので、じっと我慢。孫はじっと佇んでいる。ダダはこねないが、いろいろ思っているらしく、行くよと催促すると、靴で地面を鳴らし、拒否の意思表示をして睨みつける。「おばあちゃんに何か言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってごらん?」と言うと、

「ママがいい〜」と、それだけ繰り返して大泣き。我慢していたのだろう。昼間は保育園で、それ以外はママと一緒の生活が一変したのだから無理もない。ここはおばあちゃんではダメなので、また病室へ戻ってママの膝で甘えさせて、1時間遅れでやっと帰ることができた。孫にとっての試練だけど、帰ってきたらママは赤ん坊に取られるから、更なる試練の日々が待っているんだよ。3歳児の成長過程を目撃しながらの、新鮮な毎日だ。

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年の瀬の古寺めぐり

2017/01/04 20:34
夫婦ふたり暮らしになってから、かれこれ17年。年末年始は長女のいる東京や、次女のいる福岡で過ごすことが多かった。しかし義母が高齢になり、年末年始はヘルパーさんやデイサービスなど福祉関係の施設もお休みになることから、家を空けることはだんだん難しくなってきた。

けれどそれを理由に、何かを我慢したり犠牲にしたりということはしたくない。ということで9月にスペインに行ったものの、あれは半分仕事がらみの旅行だったので、自費で行ったとはいえ行先もスケジュールも人任せ。めいっぱい楽しみはしたが、やっぱりちょっと違う感じだ。

行くとなれば、宿から日程から自分で吟味して決めて出発したい。というわけで、何年も前から行こうと夫婦で話しながら都合が合わず、延び延びになっていた奈良旅行を決行することにした。時期は12月最後の週の月曜から2泊3日。義母さんはデイサービスなどを利用中なので安心だ。

行きは鹿児島中央駅から新幹線みずほで、新大阪駅まで一直線。帰りは伊丹空港から鹿児島空港までひとっ飛びという計画だ。実は奈良は新婚旅行で行った場所なので、結婚30周年に行く予定が38年周年に、やっとのことで実現したのだった。人生、いつ何が起こるか一寸先は闇。だから行けるときに行かなくちゃとレッツ・ゴー。

最初の到着地大阪も、めったに行くことはないので、奈良に移動する前に日本一高い超高層ビルといわれる「アベノハルカス」へ。仕事納め直前の月曜日の午後だったせいか、14階の入場券売り場にもエレベータ前にも人は並んでおらず、スイスイと展望台へ到着。大都市大阪の街を360度見わたしてきた。

ホテルは新婚旅行で泊まった奈良ホテル。ちょっと高いけれども、ここは奮発して予約した。翌日は終日雨。しかも寒かったが、ホテルから歩いて一番近い元興寺(がんごうじ)へ。ここは「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産に登録されているそうだ。本堂と極楽坊禅室の屋根瓦の一部に使われている、何と飛鳥時代の丸瓦を見ることができた。

次にすぐ近くの、格子のある町屋が続くならまちを散策。昔ながらの漢方薬局で一休みして、さらに歩いて猿沢池へ。ここは中学時代に修学旅行で来たことがあった。その上の高台にある興福寺への階段を上り、南円堂,、再建工事中の中金堂、五重塔、東金堂を歩きながら見学。鹿もいたが、鹿と写真に納まる外国人観光客の多さに驚いた。

次は市バスに乗って、修学旅行以来の東大寺へ。国宝の南大門をくぐり、中門を出た所ではるか正面に国宝の金堂(大仏殿)が目の前に出現したとたん、その壮大で秀麗な建物に「おおっ!」と思わず声が出た。2度の焼失を経て、現在の建物は約300年前のもので、世界最大の木造建築物だとか。中に入り、大仏様を拝顔してきた。

次に隣接する春日大社へ。ここには合計61社が祀られているらしいが起伏が多く、老体にこたえるので、御本殿の周辺のみを歩いた。というのも初もうでの準備で重要な場所は幕で覆ってあり、立ち入り禁止が多かった。見終わると午後2時半。ホテルへ帰ろうとバスに乗ったら、唐招提寺方面へ行くバスだった。

せっかくなので、そのまま唐招提寺へ。写真で見知っていた唐招提寺は参拝者もまばら。木立に囲まれた静謐な場所に、これぞ古寺というゆかしい佇まいで建っていた。翌日は京都に足を延ばし、伏見稲荷神社へ。8割は外国人かという賑やかさでテーマパークと化していた。有り難くはあるけれど早々に退散。計6カ所の有名な寺社をめぐったが、ベストワンの古寺は、鑑真和上の開いた奈良の唐招提寺だった。

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宮沢賢治の話を聴いた夕べ

2016/12/14 01:07
先日鹿児島市で開かれた<第4回文学の夕べ>という催しで、「宮沢賢治のこと」題する講演会がありました。講師は岩手県花巻市から遠路来鹿された宮沢和樹さんです。和樹さんの祖父は宮沢賢治の8歳下の弟・清六。つまり和樹さんは清六さんの孫にあたります。

宮沢賢治は5人きょうだいの長男で、2歳下の妹トシは賢治の詩「永訣の朝」に詠われている最愛の妹でしたが、享年24歳で病死します。長男の賢治も独身のまま37歳で、ともに結核で亡くなりました。あとの3人は長生きして、特に清六さんは長寿で、2001年に97歳で亡くなっています。

宮沢賢治は楽しい人だった、面白かったと、色んな話を和樹さんは清六さんから聞いて育ちます。また和樹さんが宮沢賢治の親類だと知った人のうち、いままで3人から「あのマキを背負った方ですね」と二宮金次郎を指して言われたとか。どちらも名前に「宮」の字があるので、間違われたんでしょうねと。

賢治は多才な人で幅広い分野で活躍していますが、文学作品は大きく詩と童話の2つに分けられると和樹さん。詩は「自分というものを表現する方法」、童話は「根っこに法華経」があると。実家は浄土真宗だそうですが、賢治は法華経を伝えるための方法として童話を書いた、という解説でした。

賢治の代表作とされる「雨ニモマケズ」は、あれは作品としては書いてない。病床にあった賢治が自分を励まし、祈りとして自分のために手帳に書きつけたものだと。だから題もなかったが、賢治の死後、清六さんが「雨ニモマケズ」の題で詩として世に出したものだとか。教育現場で無理に暗記させる教え方が多いが、それはしてほしくないということでした。

賢治の生前に刊行されたのは詩集『春と修羅』と短編集『注文の多い料理店』の2冊で、どちらも1924年の出版です。『春と修羅』は福島県いわき出身の詩人・草野心平を通して彫刻家で詩人の高村光太郎に紹介されたところ、光太郎は「この詩集は自分の詩より後世に残るだろう」と高く評価し、その後も賢治と交流があったそうです。

戦争末期の昭和20年4月の空襲で、東京にあった光太郎のアトリエは全焼し、多くの彫刻やデッサンは焼失。それを知った清六さんの勧めで、光太郎は花巻の清六さん宅に疎開します。そのとき光太郎は自分が空襲に遭った経験から、防空壕を造りなさいと勧め、その通りにして大事なものは防空壕に入れていたそうです。

はたして終戦間際の昭和20年8月10日、花巻もついに空襲に遭い、宮沢家も焼け落ちて、疎開中の幸太郎を含め清六さん一家はかろうじて助かったそうです。しかし防空壕に入れていた賢治の原稿は焼け残り、これがのちに出版されることになる数々の作品だったということです。

和樹さんによれば、宮沢賢治が今日のように知られるようになったのは、高村光太郎、草野心平、宮沢静六の3人がいたからこそだと。賢治の死後、光太郎や草野心平の尽力によって、詩や童話が出版されたこと。清六さんは兄を世に出すことに集中し、いわばプロデューサーとして兄よりも前に出ることはなかったそうです。

この話を聴いて、わたしは樋口一葉と妹・邦子の関係に似ていると思いました。一葉も肺結核のため24歳で亡くなりましたが、邦子は一葉が生活の為に命を削って創作に励んでいる姿を見ていて、一葉の書いたものは書きそこないの反古(ほご)紙まで、一枚たりとも粗末にせず、姉・一葉の作品・業績を生涯かけて守ったからです。

余談ですが、一葉と母妹が住んだことにある本郷菊坂町の住居跡のすぐ近くに、28年ぐらいあとですが、一時期宮沢賢治が住んでいました。そのことを示す文京区の案内板があります。

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  正面の建物あたりに賢治の旧居があった

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夕陽に映える桜島と上弦の月

2016/12/12 23:25
◆2016年12月11日。あまりに良いお天気だったため、また空気も乾燥していたので、洗濯物をたくさんベランダに干しました。夕方、洗濯物を取り込みにベランダへ出ると、夕陽を浴びた桜島が濃い紫色に染まり、まさに日暮れようとしているところでした。

お天気のいい日の桜島は、朝は黒々とした山容を見せ、昼間は茶褐色の荒々しい雄姿を、そして陽が傾くにつれて微妙に山肌の色が変化し、ついには赤紫へと七変化を見せてくれます。私はこの赤紫に染まった桜島が火山らしくて、また普通の山との違いが感じられて、一番好きです。

きょうはベランダに出たとたん、まさにその大好きなシーンに出くわし、あわててスマホを取りに戻り、写真を撮りました。なぜなら桜島の上空には、満月を3日後に控えた真白い上弦の月がぽっかりと浮かんでいたからです。紫色の桜島と白い月。

この美しい取り合わせに胸が躍ったというわけです。上空の月がちょうど川面に映り込んでいましたので、それもカシャッと撮りました。肉眼で見る本物の色の美しさや大きさとは比べようもありませんが、写真をクリックして大きくしてご覧いただければ嬉しいです。

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             ≪おまけの写真≫

鹿児島市内にある鹿児島中央駅は、九州新幹線の南の起点です。その駅ビル1階広場に先日、クリスマスのイルミネーションが登場しました。ことしは例年にない美しさなので、思わず写真を撮りました。ツリーのデザインは、鹿児島の伝統工芸でもあるガラス細工の「薩摩切子」がモチーフだそうです。ツリー全体の色が変わります。

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歌よむひと

2016/11/23 17:19
きょう11月23日は、樋口一葉の命日です。30年ほど前のちょうどきょう、一葉関係の資料を探しに、というか見に、目黒区駒場にある日本近代文学館へ足を運んだことがありました。京王井の頭線の駒場東大駅前下車。西口から歩いて7〜8分ほどかかりますが、途中、駒場公園内を通り、旧前田家の洋館をながめ、奥のほうに文学館はありました。

公園内は芝生が敷き詰められ、銀杏の木がまさに黄金色のまっさかりで、芝生の上にも銀杏の葉が重なり合って、金色の絨毯の上を歩いているような気持ちがしたものです。それ以来行っておりませんが、最近はカフェも併設されているらしく、ぜひ行ってみたいものです。

一葉は小説家として知られていますが、実は歌道の先生を目指した時期もある歌人でもありました。歌人といえば、現代の歌人では馬場あき子さんが好きです。歌だけでなく民俗学にも詳しく、「鬼の研究」などの著書もあります。そのあき子さんの講演を1回だけ、鹿児島で聴いた事があります。十数年前のことです。

壇上に現れたあき子さんは当時70代半ばだったと思いますが、薄ねずみ色のお召しに浅黄色の帯という装いでした。黒髪はひっつめにして、後の髷(まげ)は銀色の飾りでくるむようにまとめてありました。年齢的にはわたしの亡き実母より5歳下。つまり同世代と言えましょう。お話は戦争末期の17歳の体験から始まりました。

東京生まれで東京在住だったあき子さんは、女学校時代は軍需工場で働き、旋盤を回すのが大得意だったそうです。ところが、得意な人は地方の工場へ行かされるという噂を聞き、いっそ死ぬなら両親と一緒がいいと、東京へ残るために進学。しかし空襲で校舎が焼けたため、お寺の本堂を借りての授業になります。

お弁当にはふかしたお芋を1本、または焼き米を持参して、食べ物が無いときは襷(たすき)でお腹をきつく縛り、空腹をしのぐこともあったとか。授業は古典文学。万葉集を声を出して覚える中で、あき子さんは日本語の韻律の美しさを学び、韻律のドラマを感じ取ったそうです。

授業はたびたび空襲警報で中断され、何もかも放り出して防空壕へ避難。警報が解除されるとまた万葉集の勉強に戻る。今思えば、あのような戦時中でも学校の授業がちゃんと行われていたということに驚きを感じる、とも言われました。ある授業中にふとお寺の庭に目をやると、外には5月の陽光が降り注ぎ、今を盛りと咲き誇る色鮮やかな牡丹の花が…。その激しい美しさを、暗い本堂の中から見ている自分がいる。

戦争、空腹、古典文学。全く異なる3つ世界。その不思議な世界の中でこうして生きている自分とは何か? と感慨に打たれたそうです。やがて敗戦となり、全てを失った日本にも秋が来た。自宅の焼け跡を耕して畑にしていたところ、どこから来たのかコオロギが鳴き出し、確実に巡ってきた季節の美しさにあき子さんは感動したといいます。そのエピソードに歌人馬場あき子さんの原点を見る思いがしました。

歌よみの世界には「裏読み」というのがあるらしく、どれだけ目に見える裏側にあるものが詠めるのか。現実から人生の、世の中のどれくらい先が読めるのか。また今の世の中をどう見るか。甘いか、酸っぱいか、苦いか。歌人として、そういう時代観は言葉を選ぶ上でとても大切なことだと。
 
わたしたちの人生は時間を離れてはありえないわけですが、この一瞬を大切に生きることが大事です、ときっぱり。結論は平凡だけれど、これを言うのが(歌にするのが)難しい、と講演を結ばれました。当時のメモを読み返しながら、いろいろなことが甦って来た一日でした。

 【おしらせ】 この秋、駒場の前田邸は改修工事に入っているそうです。
         駒場公園自体には入れますが、日本近代文学館へ行かれる場合は、
         開館中かどうかを確認されてからのほうがいいと思います。


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一葉記念館を訪ねて

2016/11/09 21:09
去る9月末にある週刊誌の記者から、樋口一葉のことについての取材依頼があった。樋口一葉の研究者はたくさんいるのに、なんでわたしに? と思ったが、一葉のことを知ってもらうためなら取材でも原稿でも、頼まれれば原則引き受けようと決めているので、今回も承諾の返事をした。そして1カ月ほど前、記者のMさんが鹿児島市内の拙宅へ取材に来られた。

1971年から1996年まで司馬遼太郎が週刊朝日に「街道をゆく」を連載していた縁で、再びその足跡をたどるという企画が同誌で現在進行中なのだという。現在は1991年8月から翌年にかけて連載された「本郷界隈」にさしかかっており、樋口一葉も住んだことのある本郷ということで、わたしのところにも話が舞い込んできたのだった。

連載の表題は≪司馬遼太郎の言葉≫となっていて、わたしの話した内容は第4回「崖下の才能」というタイトルで、別の人への取材も含め、きちんとまとめられていた。つい先月、NHKのドラマで「漱石の妻」が放送されていたが、本郷界隈には夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、坪内逍遥などの旧居跡がいまも残っている。

先週は用あって、東京に数日間滞在した。そのうち半日時間が空いたので、本郷行きも考えたが、久しぶりに台東区立「一葉記念館」に行くことにした。東京メトロ日比谷線に乗り、三ノ輪駅で下車。国際通りを南下して、一葉記念館入口バス停から左折。迷わず歩けば10分足らずで一葉記念館にたどり着く。

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   台東区立 一葉記念館


樋口一葉の評伝を書くために1980年代から、一葉記念館には何度となく通った。木造の旧館の時代に数回、10年前に新館に建て替わってからは、今回が2回目の訪問となった。旧館の時、入り口にあった石碑は、現在は記念館に隣接する一葉記念公園に移設されている。

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   一葉記念公園内に移設された石碑 

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   一葉記念公園内の石碑 その2

訪問したのは11月4日だったが、現在「一葉記念館リニューアル10周年記念特別展」として、「にごりえ 〜樋口一葉が描いた光と翳(かげ)〜」が来年1月29日までの予定で開催中だった。平日の午前中のためか来場者は少なく、その分、自分のペースで展示品の1つ1つをゆっくり見て回ることができた。

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   「にごりえ」展示のポスター   

入場料は通常300円。再来週の11月23日は樋口一葉の命日のため、一葉記念館では11月20日(日)から23日(水・祝)に「一葉祭」が開催され、会期中は入場無料となる。毎年その時期に行きたいと思いつつも、なかなか予定が会わず、今年も3週間も早い上京になってしまった。

「一葉祭」では、記念講演や一葉作品の朗読、「たけくらべ」ゆかりの地めぐり、などの催しが行われる。講演と朗読は定員60名程度のため、申込みのあと抽選になるようだ。特に23日の講演は東大教授ロバート・キャンベルさんによる「一葉文学と東京の19世紀」。抽選だけども、館外にモニターも設置されるらしい。聴きに行きたけれど、やっぱり無理、と断念。

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   「一葉祭」のポスター

記念館を出て歩くこと数分、10年ぶりに旧吉原遊郭の近くに行ってみたが、大きな建物が建設中だったのでびっくりした。何が建っているのか気になる。かつて店主と一葉の話をしたことのある「あらき薬局」も同じ場所にあって嬉しかったが、代替わりしていると思い、外から写真を撮るだけにした。

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   あらき薬局外壁にある「一葉案内板」 故・荒木氏は一葉研究家

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   一葉旧居跡を示す石柱と案内板

来た道を逆方向に数分歩くと、一葉の旧居跡があり、石柱や案内板が以前と同じように立っていた。しかし石柱に一番近い家は建て替わっていた。その後、台東区の循環バス「北めぐりん」に乗り、細い道を巡りながら、ここは一葉も歩いた道かもしれない、などと想像しながら、一葉の竜泉寺町での日々に思いをはせた半日だった。

  ※参照 「週刊朝日」11月11日号 ≪司馬遼太郎の言葉≫

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