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一樹の蔭、一河の流れ

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ブログ名
一樹の蔭、一河の流れ
ブログ紹介
文芸サイト「文学夢街道」管理人の杉山武子です。
実りある60代をめざして、読書・映画・旅行など日々の活動から思うこと感じることを書いて、水曜日にアップしています。
ブログ名は平家物語の「一樹の蔭に宿るも前世の契り浅からず、同じ流れにむすぶも他生の縁なほ深し」に由来しています。
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歌よむひと

2016/11/23 17:19
きょう11月23日は、樋口一葉の命日です。30年ほど前のちょうどきょう、一葉関係の資料を探しに、というか見に、目黒区駒場にある日本近代文学館へ足を運んだことがありました。京王井の頭線の駒場東大駅前下車。西口から歩いて7〜8分ほどかかりますが、途中、駒場公園内を通り、旧前田家の洋館をながめ、奥のほうに文学館はありました。

公園内は芝生が敷き詰められ、銀杏の木がまさに黄金色のまっさかりで、芝生の上にも銀杏の葉が重なり合って、金色の絨毯の上を歩いているような気持ちがしたものです。それ以来行っておりませんが、最近はカフェも併設されているらしく、ぜひ行ってみたいものです。

一葉は小説家として知られていますが、実は歌道の先生を目指した時期もある歌人でもありました。歌人といえば、現代の歌人では馬場あき子さんが好きです。歌だけでなく民俗学にも詳しく、「鬼の研究」などの著書もあります。そのあき子さんの講演を1回だけ、鹿児島で聴いた事があります。十数年前のことです。

壇上に現れたあき子さんは当時70代半ばだったと思いますが、薄ねずみ色のお召しに浅黄色の帯という装いでした。黒髪はひっつめにして、後の髷(まげ)は銀色の飾りでくるむようにまとめてありました。年齢的にはわたしの亡き実母より5歳下。つまり同世代と言えましょう。お話は戦争末期の17歳の体験から始まりました。

東京生まれで東京在住だったあき子さんは、女学校時代は軍需工場で働き、旋盤を回すのが大得意だったそうです。ところが、得意な人は地方の工場へ行かされるという噂を聞き、いっそ死ぬなら両親と一緒がいいと、東京へ残るために進学。しかし空襲で校舎が焼けたため、お寺の本堂を借りての授業になります。

お弁当にはふかしたお芋を1本、または焼き米を持参して、食べ物が無いときは襷(たすき)でお腹をきつく縛り、空腹をしのぐこともあったとか。授業は古典文学。万葉集を声を出して覚える中で、あき子さんは日本語の韻律の美しさを学び、韻律のドラマを感じ取ったそうです。

授業はたびたび空襲警報で中断され、何もかも放り出して防空壕へ避難。警報が解除されるとまた万葉集の勉強に戻る。今思えば、あのような戦時中でも学校の授業がちゃんと行われていたということに驚きを感じる、とも言われました。ある授業中にふとお寺の庭に目をやると、外には5月の陽光が降り注ぎ、今を盛りと咲き誇る色鮮やかな牡丹の花が…。その激しい美しさを、暗い本堂の中から見ている自分がいる。

戦争、空腹、古典文学。全く異なる3つ世界。その不思議な世界の中でこうして生きている自分とは何か? と感慨に打たれたそうです。やがて敗戦となり、全てを失った日本にも秋が来た。自宅の焼け跡を耕して畑にしていたところ、どこから来たのかコオロギが鳴き出し、確実に巡ってきた季節の美しさにあき子さんは感動したといいます。そのエピソードに歌人馬場あき子さんの原点を見る思いがしました。

歌よみの世界には「裏読み」というのがあるらしく、どれだけ目に見える裏側にあるものが詠めるのか。現実から人生の、世の中のどれくらい先が読めるのか。また今の世の中をどう見るか。甘いか、酸っぱいか、苦いか。歌人として、そういう時代観は言葉を選ぶ上でとても大切なことだと。
 
わたしたちの人生は時間を離れてはありえないわけですが、この一瞬を大切に生きることが大事です、ときっぱり。結論は平凡だけれど、これを言うのが(歌にするのが)難しい、と講演を結ばれました。当時のメモを読み返しながら、いろいろなことが甦って来た一日でした。

 【おしらせ】 この秋、駒場の前田邸は改修工事に入っているそうです。
         駒場公園自体には入れますが、日本近代文学館へ行かれる場合は、
         開館中かどうかを確認されてからのほうがいいと思います。


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一葉記念館を訪ねて

2016/11/09 21:09
去る9月末にある週刊誌の記者から、樋口一葉のことについての取材依頼があった。樋口一葉の研究者はたくさんいるのに、なんでわたしに? と思ったが、一葉のことを知ってもらうためなら取材でも原稿でも、頼まれれば原則引き受けようと決めているので、今回も承諾の返事をした。そして1カ月ほど前、記者のMさんが鹿児島市内の拙宅へ取材に来られた。

1971年から1996年まで司馬遼太郎が週刊朝日に「街道をゆく」を連載していた縁で、再びその足跡をたどるという企画が同誌で現在進行中なのだという。現在は1991年8月から翌年にかけて連載された「本郷界隈」にさしかかっており、樋口一葉も住んだことのある本郷ということで、わたしのところにも話が舞い込んできたのだった。

連載の表題は≪司馬遼太郎の言葉≫となっていて、わたしの話した内容は第4回「崖下の才能」というタイトルで、別の人への取材も含め、きちんとまとめられていた。つい先月、NHKのドラマで「漱石の妻」が放送されていたが、本郷界隈には夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、坪内逍遥などの旧居跡がいまも残っている。

先週は用あって、東京に数日間滞在した。そのうち半日時間が空いたので、本郷行きも考えたが、久しぶりに台東区立「一葉記念館」に行くことにした。東京メトロ日比谷線に乗り、三ノ輪駅で下車。国際通りを南下して、一葉記念館入口バス停から左折。迷わず歩けば10分足らずで一葉記念館にたどり着く。

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   台東区立 一葉記念館


樋口一葉の評伝を書くために1980年代から、一葉記念館には何度となく通った。木造の旧館の時代に数回、10年前に新館に建て替わってからは、今回が2回目の訪問となった。旧館の時、入り口にあった石碑は、現在は記念館に隣接する一葉記念公園に移設されている。

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   一葉記念公園内に移設された石碑 

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   一葉記念公園内の石碑 その2

訪問したのは11月4日だったが、現在「一葉記念館リニューアル10周年記念特別展」として、「にごりえ 〜樋口一葉が描いた光と翳(かげ)〜」が来年1月29日までの予定で開催中だった。平日の午前中のためか来場者は少なく、その分、自分のペースで展示品の1つ1つをゆっくり見て回ることができた。

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   「にごりえ」展示のポスター   

入場料は通常300円。再来週の11月23日は樋口一葉の命日のため、一葉記念館では11月20日(日)から23日(水・祝)に「一葉祭」が開催され、会期中は入場無料となる。毎年その時期に行きたいと思いつつも、なかなか予定が会わず、今年も3週間も早い上京になってしまった。

「一葉祭」では、記念講演や一葉作品の朗読、「たけくらべ」ゆかりの地めぐり、などの催しが行われる。講演と朗読は定員60名程度のため、申込みのあと抽選になるようだ。特に23日の講演は東大教授ロバート・キャンベルさんによる「一葉文学と東京の19世紀」。抽選だけども、館外にモニターも設置されるらしい。聴きに行きたけれど、やっぱり無理、と断念。

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   「一葉祭」のポスター

記念館を出て歩くこと数分、10年ぶりに旧吉原遊郭の近くに行ってみたが、大きな建物が建設中だったのでびっくりした。何が建っているのか気になる。かつて店主と一葉の話をしたことのある「あらき薬局」も同じ場所にあって嬉しかったが、代替わりしていると思い、外から写真を撮るだけにした。

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   あらき薬局外壁にある「一葉案内板」 故・荒木氏は一葉研究家

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   一葉旧居跡を示す石柱と案内板

来た道を逆方向に数分歩くと、一葉の旧居跡があり、石柱や案内板が以前と同じように立っていた。しかし石柱に一番近い家は建て替わっていた。その後、台東区の循環バス「北めぐりん」に乗り、細い道を巡りながら、ここは一葉も歩いた道かもしれない、などと想像しながら、一葉の竜泉寺町での日々に思いをはせた半日だった。

  ※参照 「週刊朝日」11月11日号 ≪司馬遼太郎の言葉≫

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スペイン・アンダルシア紀行 5

2016/10/28 01:31
グラナダで1泊した翌朝、10分ほど歩いて駅に行き、そこから鉄道でセビリアに向かうはずだったが、なんだか様子がおかしい。一同スペイン語の案内放送の意味がわからず、あやうく乗りそこなうところだったが、あわてて列に並んでバスに乗車。高速道路を走ること約2時間で、平原の中に突如出現した真新しい駅へ到着。

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   手荷物検査場

中へ入るとすぐ、空港と同じようにスーツケースなどの手荷物検査があった。これもテロ対策なのだろう。スペインの新幹線かな、と期待したが、動き出したら全然早くなくて、快速列車程度だった。座席の向きは日本のように変えられないので後ろ向きのまま走る。座席を進行方向に動かすのは日本の鉄道の特許、と聞いた事はあるけれど、妙な感じ……。

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   乗って来た列車

オリーブ畑を車窓に見ながら、約2時間でセビリア着。大きな駅だった。ちょうどお昼だったので、構内で軽食を取り、さっそく街に繰り出した。午後7時半の便でセビリア空港からマドリッドまで移動するので、それまでの数時間を利用して男性3人とわたしの計4人で街歩き。徒歩で出発した。

セビリアはアンダルシア州の州都で人口は約70万という。旧市街地はそんなに大きくはなさそうだったが、観光客でいっぱい。30分も歩くと広大な庭園に着いた。さらにいくつもの建物の間を通り過ぎると、ひときわ大きな建物と塔が見えて来た。世界遺産に登録されているセビリア大聖堂とヒラルダの塔だ。

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   ヒラルダの塔

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   大聖堂(手前)とヒラルダの塔

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   馬車に乗った新郎新婦  

結婚式が何組も行われたらしく、着飾った男女と観光客で、聖堂前の広場はごったがえしている。馬車に乗って出発する新郎新婦や、ロールスロイスに乗って移動する新郎新婦もいた。大聖堂内部にはコロンブスの墓があるらしいが、わたしたちはさらに歩いて、マエストランサ闘牛場を外から眺めた。闘牛はスペインの国技だけれど、近年は動物愛護団体などの声に押され、衰退気味らしい。

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   セビリアの街並み

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   マエストランサ闘牛場 外観

2時間ぐらい歩き回って、タクシーで駅まで戻った。駅からリムジンバスでセビリア空港へ行き、マドリッドまで飛び、来た時と同じホテルにまた1泊した。翌日は朝4時にホテルを出発して、マドリッドからパリへ移動。パリから羽田。そして羽田から鹿児島へと、帰路は飛行機に4回乗り継ぐ空の旅だった。

かつてスペインを支配したイスラム教の影響を文化面でも色濃く受けているのが、アンダルシア地方の特徴なのを知ることができた。ひまわり畑も闘牛もフラメンコも見そこなったけれども、南欧は魅力がいっぱいの観光地だった。スペインに知り合いもできたし、次はバレンシア地方にも行きたくなった。

今回、ホテルでは2階や13階に泊まったが、日本と大いに違うことに気が付いた。2階はもちろん、上層階でもガラス窓がパカーンと全開するのだ。もちろん窓の下の壁は、わたしの肩の高さまであるので安全。けれど日本なら、窓をあけても10センチ程度しか開かないようになっている。スペインのこの無防備さは何だろうと思った。

考えてみれば、そもそもスペインではホテルの窓から飛び降り自殺するという発想自体が無いのだと思った。さっそく自殺率の国際比較をネットで調べてみると、ワースト1位:北朝鮮、2位:韓国、3位ガイアナと続き、日本は悲しいかな9位。対するスペインは93位だった。そうか、それで窓がパカーンと開くのか、と妙に納得したスペイン最後の夜だった。

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スペイン・アンダルシア紀行 4

2016/10/22 00:14
アルメリアに3泊して行われた調査も終わり、9月23日午前7時、まだ夜明け前の暗い中を、一行6人はワゴン車に乗ってホテルを出発。グラナダを目指した。高速道路に入ると速度は時速90から100キロ程度と、日本とあまり変わらない。通訳さんは安全運転で飛ばしてくれた。ちなみにスペインは右側通行で高速道はフリー。つまり無料。

ハウス栽培地帯や荒涼とした乾燥地を走る事2時間弱。最後の調査地のとある事業所に着いた。わたし1人ではどこにも行けない場所なので、調査チームの末席に加えてもらい、通訳さんを交えてのやり取りをしっかりメモしながら聞いた。こんな時のために英語の名刺を作って持参したので、役に立った。わたしの肩書は一応「Writer&Blogger」ということにして。

正午前に調査が終り、約1時間高速道を走り、途中の小さな村に降りて、レストランで1時からランチ。スペインの高速道には日本のパーキングエリアのような施設はほとんどないそうだ。またランチの営業は午後1時からが普通らしく、一番乗りの私たちに続き、次々と村に1つしかないお店に人が集まって来た。

再び高速道を走り、グラナダ市内へ入ると、旧市街地は道は狭くて路地が多く、大学もあって、若者や観光客であふれていた。3時前にホテルに着き、通訳さんとはそこでお別れしたが、運転と通訳に大変お世話になった。奥様と娘さんのために買った日本のお土産を手渡して、お別れした。最後にホテルからアルハンブラ宮殿の近くまで、わざわざ送っていただいた。

日程の最後の方でアルハンブラに行くとは聞いていたが、調査が主目的のため観光はあくまで「おまけ」だ。この日はグラナダに泊まり、翌日はセビリアにバスと列車で移動し、夕方の飛行機でマドリッドまで飛ぶ予定だ。マドリッドで1泊して、さらにパリに飛び、パリから羽田、そして羽田から鹿児島へと、帰路は都合4回、計17時間の飛行が待っている。

グラナダに来たのだからと、夕食までの2〜3時間を利用してアルハンブラ宮殿観光を考えたのだ。前々日あたりからネットで調べると、アルハンブラ宮殿に入るのはチケットが必要で、しかも2カ月前ぐらいから予約するらしい。しかし無料で見れる庭園や宮殿も1つあると、あるブログに書いてあったので、「何とかなるさあ」と行ってみたのだ。

空は青空、空気は乾燥していて、日差しは強いのにベタベタした汗はかかない。日陰を見つけるようにして、駐車場の横を通り、ゾロゾロと前の人に続いて中へ入ろうとした。が、チケットの無い人は入れないと断られた。でも大勢の人が脇道を先へ先へと歩いているので、わたしたちも歩いて行くと、地味な入り口があったので、そこから中に入った。

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   坂道を上って行く

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   門をくぐって庭園へ

チケットの無い人は「手の平」が門の上部に描かれている「裁きの門」から入るとよい、とネットに書いてあったが、どうやらその門ではなさそうだ。しばらく坂道を上ると、いかにもイスラム様式という壮麗な建物や門が現れてきた。いろんな国の言葉が飛び交い、人また人の波だ。案内板を見ると、そこは無料で入れるカルロス5世宮殿横の庭園だった。ラッキー! 眼下に門があったので見ると、それが手の平を刻んだ裁きの門だった。

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   裁きの門。上部に手の印がある。
 
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  タクシー乗り場のある広場から

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   カルロス5世宮殿(外壁)

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   カルロス5世宮殿の内部 円形になっている。

アルハンブラ宮殿は世界遺産としても有名。8世紀初めにイスラム教徒がイベリア半島に進出し、アラブ人が築きあげた城塞都市だという。しかし11世紀前半からキリスト教徒が盛り返し、700年かけてイスラム教徒を追い出し、この地は再びキリスト教徒の手に戻ったという。しかしイスラムの最後の砦であったこの宮殿は破壊されずに残り、カルロス5世が避暑地と定めてスペインの城となり、イスラム文化をいまに伝えている。

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   庭園からグラナダの市街地をのぞむ

チケットが無いので有名な宮殿内のパティオや庭園は見ることができなかったが、イスラム建築の一端を見ることができて良かった。通訳さんが数日前、教えてくれた。アルメニアという地名、そこで見たアルカサバ(砦)そしてアルハンブラも、みんな「アル」で始まる。それは「アラブに由来する言葉」で、イスラム文化の名残なんです、と。

グラナダでの夕食は、ホテルから10分ほど歩いて、闘牛場に併設されたレストランへ。5人で飲物と料理を適当に数皿頼んで、戸外の涼しいテーブルで食事。何度も食事したが、ほとんど外れは無く、スペインの料理はわたしだけではなく、みんなの口に合い、おいしかった。
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   グラナダのレストラン。右扉の奥に闘牛場があった。
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   野球場を小さくしたような闘牛場

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   レストランの料理@
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   レストランの料理A

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スペイン・アンダルシア紀行 3

2016/10/08 17:53
今回の旅は機中泊を除き、全6泊の日程で、そのうち3泊は地中海に面したアルメリアだった。調査チームが仕事中に、わたしは自由に観光や街歩きを楽しんだ。とはいえ自分で計画した旅ではないので、行先について下調べもしないまま出発。そのため毎晩スマホやタブレットを活用して、最新の情報を手に入れて翌日の計画を立てた。

観光地めぐりはスマホの地図アプリを使うこともできたが、なんせ女の一人歩き。スキを狙われる危険もあるので、歩きスマホはしたくない。それで移動中は時折ホテルでもらった地図を見たり、街頭に掲示された地図版で確認する程度。前夜にしっかりルートを調べて、迷えば人に尋ねた。

首都マドリッドには旅の最初と最後に、空港近くのホテルに泊まった。同行したチームの目的はアンダルシア地方の調査だったため、アルメリアやグラナダなど地方都市に滞在したのが良かったのか、スリとか強盗とかそんな危ない目には一度も遭わなかった。

言葉は通じなくても身振り手振りでの道案内など、親切にしてもらった。また大都会や繁華街は別にして、たいていの交差点はロータリー方式が採用されていて、横断道路にも信号の無いところが多い。しかし歩行者優先が守られていて、車もバイクもきちんと停止するので安心だった。

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通りの果物屋さん

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ロータリーのようす。一段上がって自転車道と歩道。

ヨーロッパの国々では、たいてい自転車専用道路が設けてある。それは車道の一部が青色の帯状になっていたものもあった。アルメリアの場合は車道ではなく、歩道と同じ高さに1メートル幅くらいに自転車道があり、それに沿って歩道が設けられていた。この方式だと自転車はより安全だと感じた。

今回行ったマドリッド、アルメリア、グラナダの3都市を見た限りでは、大きなごみなど散らかっておらず、昔行ったことのあるパリやロンドンに比べればきれいだった。歩道脇には大きなゴミ箱が並び、簡単な分別はされていて、そこに家庭ごみを捨てていた。そのごみは、大きなトラックが来て回収していた。

交差点の歩道の角には、ポリバケツくらいの黒いゴミ箱が設置され、毎日回収するらしく周辺も散らかっていない。その横にはタバコが吸えるよう灰皿スタンドの設備があるのも目に付いた。そこで立ち止まり、タバコを吸っている人が多かった。ともかく街角にごみ箱が多いところは、日本とは違う光景だ。

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歩道のごみ箱。かなり大きい。

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街角のようす(アルメリア)

9月のスペインはまだ夏時間ということで、時差は7時間。9月下旬なのに夜が長くて、午後7時45分ころやっとたそがれた。そのかわり朝が遅く、7時はまだ真っ暗! 7時半ごろやっと明るくなるという具合だった。美術館などは10時開館。会社は9時に始まり、午後2時から4時が昼休みで、それからまた仕事。当然、万事夜型の生活になっている。

なのでランチのお店は午後1時から、夕食は8時過ぎ開店のレストランが普通だという。週末ともなれば夜の10時過ぎまで飲んだり食べたり楽しむのが、スペイン人の日常のようだ。ただしこんなスペイン時間も非効率ということで、大都市では変化の兆しがあり、シエスタ(午睡)の習慣があるのは、アンダルシア地方など南部に残るのみになりつつあるらしい。

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「黒いバラ」という名のアルメリアのレストラン。

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シーフードのおいしかったアルメリアのレストラン。

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スペイン・アンダルシア紀行 2

2016/10/03 11:20
前回、マドリッドから飛行機で1時間飛んでアルメリアに移動し、子豚の丸焼きならぬ開き焼き? をいただいたところまで書いた。アルメリアはアンダルシア州アルメリア県の県都で、地中海に面した人口約20万の港湾都市だ。温暖な気候を生かしたハウス(温室)農業が中心産業になっている。
 ※写真はワンクリックで拡大します。

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 アルメリア空港近くの農業ハウス群

温暖かつ乾燥地帯でもあるのは、高速道路を走ってわかった。丘陵地帯の山肌を削り取った道路からは、日本の風景とは異なって木はせいぜい灌木(低い木)がまばらにある程度。草が多少生い茂ってはいるが、行けども行けどもほとんどが荒々しい断層をむき出しにした岩山ばかり。ここは石の国だ、と思った。

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  削られた岩肌

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 アルメリア郊外のオフィスビル周辺風景

やがて車窓から緑が見えてきたと思ったら、オリーブ畑やオリーブの苗木を植えた一帯だった。苗木は碁盤の目のように等間隔に植えられていて、平地から斜面一面に続いている。その整然とした美しさは、日本の田植えのあとの田んぼの風景にそっくりだと思った。スペインはオリーブの実の生産国として世界一で、アンダルシア地方は最大の生産量を誇るそうだ。

オリーブ畑もさることながら、アルメリアはハウス栽培も盛んなところ。沿岸から丘陵にかけて真っ白く覆われるほど、膨大な量の農業ハウスで埋め尽くされていた。強い日光を遮り、冬にも栽培するため1980年代からハウス栽培が始まったそうだ。それらの青果物はヨーロッパ各国に輸出されているという。レストランでも生野菜をふんだんに食べることができた。

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 延々と広がるハウス群

アルメリアでの2日目、調査に出かける一行を見送り、一人で旧市街地を観光した。カテドラル(キリスト教大聖堂)や古城など、通訳さんを介してホテルの人に見どころとバス路線を聞いた。さらにバス停で若い女性に行先を告げて下車するバス停を教えてもらい、そのバス停の名前と番号、Cuanto cuesuta? (いくらですか?)と、ノートの1ページに大きな字で書いた。

スペインの路線バスは前乗り・前払いだった。乗ってすぐ、ノートを運転手さんに見せ、ユーロコイン5、6個を乗せた手の平を運転手さんに差し出すと、運賃を取り、おつりとレシート(切符?)をくれた。着いたら教えるよというジェスチャーだったので、安心して乗っていると、15分ほどして繁華街に入り、運転手さんが「ここ」と知らせてくれた。「グラシアス」とお礼を言って下車。スペイン語が話せなくても特に困らなかった。

ホテルでもらった観光地図を片手に、狭く入り組んだ路地を歩いて、まずカテドラルへ。さすがに市の中心部だけあって賑わっている。2度ほど道順を尋ねて大聖堂前の広場に着いた。ぐるりと一周したが、裏側はすごい石組みに覆われていた。日本のお城の石垣もすごいが、大聖堂は頑丈な石の塊だった。

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 カテドラルと広場

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 カテドラルの裏側。まるで要塞。

さらに坂道を上がった先に、どでかい城砦が見えて来た。アルカサバだ。スペインで最も古い城の要塞の一部分で、高さ90メートルの丘に10世紀前半にアラブ人の手で建てられたらしい。石段の先の管理人室のおじさんが「見学はフリー(無料)だよ」と言ってくれたので、さらに登ると、その先には「天空の城ラピュタ」を思わせる風景と庭園が広がっていたのでびっくり。

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     アルカサバを仰ぎ見る

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     整然と広がる城内庭園

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 起伏に富んだ庭園内

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 アルメリア市街地と地中海を望む

広い場内に、見学者はわたしの外に2組ぐらいしかいない。さらに上ると、城というか要塞があった。右端の長方形にくりぬかれただけの入り口に向かって歩いた。一瞬、女一人、密室、迷路、の言葉が脳裏をよぎった。大いに危険、と判断して入るのを止めた。大きな谷を挟んだ向こう側の丘にも建物があり、こちらの要塞と結ぶように長い城壁が築かれていて、雄大な景観だ。空気は乾いており、晴天で30℃くらいあっても、汗をかかない。

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 最も高い場所にある城。窓がほとんどない。

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 谷間に築かれた城壁

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 別の角度から見た城壁

再び旧市街地を歩き回り、疲れたので歩道に並ぶお店でジュースを頼むと1.5ユーロ(約170円)で、目の前でオレンジ数個を絞ってくれた。スペインはバレンシアがオレンジの産地なので、どこでもフレッシュジュースが安くて飲める。休憩している途中で物売りが2度来たが、断るとすぐに離れた。犬を連れた人が多く、中高年の女性たちは明るい色柄のワンピース姿が断然多い。南欧の街で、みな人生を楽しんでいるようだった。

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スペイン・アンダルシア紀行 1

2016/09/28 16:28
ひょんなことからスペイン行きが決まった。この数年、高齢の義母の体調が気がかりで、旅行といえばせいぜい1泊か2泊程度にして長期に家を空けることはなかった。ただ最近は体調も回復してすこぶる元気。なので思い切って、ある研究調査チームに誘われて同行することになったのだ。

日程は、羽田空港近くでの前泊も入れて8泊9日。羽田からパリ経由で、スペインの首都マドリッドへ。マドリッドで1泊し、国内線で地中海に面するアルメリアへ移動し、そこに3泊。さらに車で数時間離れたグラナダに移動して1泊。調査終了後はセビリア空港からマドリッドに戻り、1泊して翌早朝空路パリへ行き、羽田行きに乗り換え。最後に鹿児島行に乗り換えて帰宅した。

ヨーロッパへは数回行っているが、スペインは初めてだ。2002年に当時学生の娘と1カ月間、鉄道を使ってヨーロッパ5か国を周遊したが、スペインは行かなかった。というのもそのころ首絞め強盗やスリ被害に遭う日本人が多く、渡航注意情報が出ていたので止めたのだ。最近は治安も良くなっているらしいし調査チームは男性ばかりなので、心配はしなかった。

パリはシャルル・ド・ゴール国際空港に降り立ったが、飛行機が降下を始めてから着陸まで、ずっと緑と黄土色がパッチワークになった美しい田園地帯が続いた。木々がひとかたまりに生い茂ってはいても、あくまでも平地か丘であって、どこまでも平原が広がっていたのには驚いた。それは次のマドリッド空港も同じで、田園地帯の中に空港が開かれていた。
※写真をワンクリックすると拡大します。

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       シャルル・ド・ゴール空港近くの田園地帯       

マドリッドでは空港近くのホテルに泊まり、翌日朝から調査開始。わたしは市内へ出る途中の地下鉄駅で調査チーム一行と別れて、ひとりでマドリッドの中心部へ移動。マドリッドには地下鉄の路線が12もあって、その路線図と市内地図を片手に観光のスタート地点となるプラザ・デ・エスパーニャ駅(スペイン広場)で下車。地上へ出たが、方角も現在地も全く分からない。現地の人に目的地や建物の名前を言って、道順を2度ほど尋ねた。

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      メトロから地上へ出た風景(以下プラド美術館までマドリッド)
   

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       アルムデナ大聖堂

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       プラザ・メイヤー(マヨール広場)

もちろんスペイン語は話せないし、片言英語もあまり役に立たなかったが、道路の案内板と勘を働かせて何とか最初の目的に地に着いた。そこからは観光地図を手に、歴史的な建造物や街並みを楽しみながら迷わず約2時間歩き回った。途中、日本人の団体を1度見たきり。中国や韓国からの観光客にはけっこうすれ違った。日本人は個人旅行が多いのかもしれない。

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       バンコ・デ・エスパーニャ メトロ駅付近

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       メトロポリス保険会社のビル  

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       アルカラ門(かつて街への入り口だった)

昼過ぎに調査チームと地下鉄駅で合流し、レストランへ。パエリア2皿、サラダ1皿を5人でシェアしながら、昼間からビールやワインでランチ。これも旅の醍醐味かもしれない。午後の調査はないというので、プラド美術館へ行ってみたが、なんと長蛇の列。時間的に入館は無理と分かり、断念。建物周囲を散策してホテルに戻り、預けていた荷物を受け取って、マドリッド空港から次の調査地へと移動した。

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     プラド美術館

約2時間の飛行でアルメリアの小さな空港着。そこで通訳の男性と合流し、彼の車で宿泊先のホテルに着いたのは夜の8時だった。荷解きして30分後にロビーに集合し、夕食に出かけた。ホテルは中心部から離れていたので周辺の賑やかさはなかったが、少し歩いていくと窓越しに火が燃えているレストランがあった。子豚が鯵の開き状態で焼かれていたのでびっくり。宣伝用らしかったが、一同興味津々で、そのレストランに入った。

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       レストラン店頭 (子豚の開き焼きなどが歩道から見える)

お店の目玉商品である子豚を焼いた肉とサラダ、ビール、ワインを注文し、通訳さんも含めて6人でシェアしていただいた。豚肉にはポテトなどの付け合わせ、サラダは生野菜たっぷりで、パンが必ず最初に出てくる。子豚の肉は厚く切ってあったが柔らかくて、そのおいしいこと! ごめんねと内心詫びる気持で、初めて食べる味に感激しながらいただいた。

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       子豚の肉を焼いた一皿

ところでパリの空港とマドリッドの地下鉄出口で立っているとき、面白い体験をした。乗り換えのため空港で搭乗口の長い列に並んでいるとき、スペイン人らしい女性から、「この列はマドリッド行きですか?」と2度も訊かれた。地下鉄駅のところでも2度、観光客らしい女性からスペイン語で「○△へはここから出ればいいの?」みたいなことを訊かれたが、「私もツーリストだから分からない」と片言英語で返事した。

周囲にいくらでもスペイン人らしい人たちがいるのに、わたしって、よっぽど話しかけやすいのかな? それとも現地在住の東洋人に見えるのかな? 理由は分からないが、それならばとその経験を逆手にとって、いかにも現地人のふりをして歩いたので、ひとりでも全然平気だった。

老若男女、いろんな人に道を尋ねたが、スペイン人はとても親切だった。背丈も低めの人が多く、道路も歩行者優先が守られていて、親しみと温かさを感じながらの街歩きだった。とはいえ、マドリッドでは銀行入り口に2人の警備員が長い銃を構えて立っていたのを見たが、日本にはない光景だった。
 
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