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一樹の蔭、一河の流れ

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一樹の蔭、一河の流れ
ブログ紹介
文芸サイト「文学夢街道」管理人の杉山武子です。
実りある60代をめざして、読書・映画・旅行など日々の活動から思うこと感じることを書いて、月に2回、水曜日にアップしています。
ブログ名は平家物語の「一樹の蔭に宿るも前世の契り浅からず、同じ流れにむすぶも他生の縁なほ深し」に由来しています。
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子育てのヒント 

2018/06/13 00:15
最近、必要があって自分の本棚から古い資料を探している。5年前の引越しの際、本の置き場所を大幅に変更したこともあって、必要な本や資料がパッと取り出せなくなった。先日もあちこち探してみたが、肝心の資料は行方不明。押入れ奥の段ボールも調べたが出てこない。

ところがそうやって昔の資料類をひっくり返していると、古い作品がたくさん出てきた。20〜30年前のエッセイや短編小説など原稿用紙に清書したものは、何かのコンテストに出したものらしい。書いた本人も忘れていた原稿の束。

結局、没になってそのままお蔵入りしたもの、無事に活字になった作品のコピーなど、いろいろ混ざっている。40歳代前半までは書くのはワープロではなく手書きの原稿用紙に拘っていたので、当時はこんなにきれいな文字で書いていたのかとインクの文字が懐かしい。

そんな中に「子育てのヒント」と題した紙が1枚混じっていた。裏面は学習塾のスケジュール表になっていて、「2002年夏」の文字。新聞の折り込みチラシのようだ。わたしの娘たちはすでに成人していたが、気になって捨てずに保管しておいたものらしい。

いまでは4人の孫がいるが遠くに離れて暮らしている。娘たちの家庭や子育てに口出しする気はさらさらないが、自分の子育ての時に、こんなヒントを知っていればよかったのにと思うことしきりなので、ここに紹介したい。

チラシには<ドロシー・ロー・ノルト博士の著書「子どもが育つ魔法の言葉」の中の見出しを表題「子育てのヒント」として紹介しました>と出典が書いてあった。

一、 けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
一、 とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
一、 不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
一、「かわいそうな子だ」といって育てると、
          子どもは、みじめな気持ちになる
一、 子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
一、 親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
一、 叱りつけてばかりいると子どもは、
          「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
一、 励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる
一、 広い心で接すれば、短絡的な子にはならない
一、 誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
一、 愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
一、 認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
一、 見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
一、 分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
一、 親が正直であれば、子どもは、
           正直であることの大切さを知る
一、子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
一、やさしく、思いやりをもって育てれば、
           子供は、優しい子に育つ
一、 守ってあげれば、子どもは強い子に育つ
一、 和気あいあいとした家庭で育てれば、子どもは、
          この世の中に希望と勇気をもって生きる事を知る


親ともなれば、忙しい毎日の中でつい幼い子を急かせたり、怒ったり、叱ったりしがちだ。わたしも勤めていたのでそうだった。ここに書いてある項目の全部は無理だとしても、自分に思い当たる2つか3つくらいなら、今日からでも子どもに対する対処法を修正するヒントになるのではないだろうか。

自分に小さい子がいなくても、周りを見れば子どもはいる。彼らはいずれ日本の未来を担う存在だ。だから子どもらの健やかな成長は、結果としてよい社会環境へとつながるから、あたたかい気持ちで彼らの成長を見守るのは大人の役割ではないだろうか。

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恩讐は越えられるか

2018/05/23 01:27
ことしは明治維新から150年の節目に当たることで、NHK大河ドラマでは西郷隆盛を主人公とする「西郷どん」を放送している。わたしの住む鹿児島では、チャンスとばかり官民あげて観光客誘致に湧いている。市営観光バスの側面には「薩摩が近代日本を創った」の大文字が誇らしげだ。

それを見るたびに鹿児島市に移住して18年になるよそ者(県外出身)のわたしは、「ほんまかいな」とツッコミを入れたくなる。引っ越す前に「鹿児島で西郷さんの悪口を言ったらぶん殴られるよ」などと聞いていたが、来てみたら西郷さんの人気は想像以上に絶大だった。

確かに西郷さんは偉い人だ。しかし偉人や英雄と言われる人でも、ある一面ばかり押し付けられては面白くない。別の顔もあるのではないかと、鹿児島に来てから西郷さんに限らず興味のある人について、文芸同人誌やメルマガなどに別の一面を書いたりしてきた。

そのせいもあってか、どうやらわたしは「西郷さんが嫌いな人」と嫌味を言われるまでになった。別に嫌っているわけではないが、自分なりに調べたことを書いているだけだ。そんな鹿児島で、最近「オヤッ?」と驚くことが地元の新聞やテレビニュースで報じられた。

明治維新といえば「薩長土肥」は雄藩と呼ばれ、この四藩は明治新政府の主要官職に多くの人材を送り出し、彼らが活躍したことはつとに知られている。薩摩の場合、その筆頭は西郷隆盛と大久保利通の二人で、彼らは薩摩藩士が多く住んだ加治屋町(かじやちょう)で育った仲だった。

協力して明治維新を成し遂げた二人は政府の要職に就くが、政策をめぐってだんだん対立するようになる。詳しいことは省くが、1877年に西郷は薩軍を率いて政府に反乱、西南戦争を起こす。これに対し大久保は政府軍(官軍)を指揮して、薩軍を鎮圧。追い詰められた西郷は城山洞窟の近くで自刃。薩摩の若者たちが敵味方になって戦い、多くの戦死者が出た。

7カ月の攻防の末、官軍の勝利で終わった西南戦争だったが、翌年、大久保は不平士族数名により紀尾井坂で暗殺された。ともに悲劇的な最期となった薩摩の英雄ともいえる二人だが、鹿児島に来て感じたのは、西郷さんの人気に比べると、大久保さんはとんと人気が無かった。なんで? 

その疑問が最近解けた。西郷隆盛は鹿児島市内の南洲公園内の墓地に薩軍約2,000人と共に葬られている。片や官軍の戦没者は1キロほど離れた祇園之洲(ぎおんのす)公園に眠るそうだ。西南戦争140年の昨年、南洲公園内に「西南之役官軍薩軍恩讐を越えての会」の手で両軍の戦没者を弔う慰霊塔が建立された。

ことし5月、その慰霊塔前で大久保没後140年の法要が計画されると、西郷を顕彰する市民グループが「大久保は西郷を死地に追いやった人物」と大反発。法要名称から大久保の名を外したそうだ。「官軍側、薩軍側の分け隔てなく平等に供養したい」という、法要を企画した住職の思いも届かなかったようだ。西南戦争をめぐる遺恨は、まだ根強く続いているのを知った。

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甲斐の国、見延山へゆく

2018/05/10 00:19
ことしの大型連休中も、また甲斐の国をドライブする機会に恵まれた。甲府市在住の知人が案内してくれたのだ。毎年連休中は都内の長女宅に居候して、用事を済ませている。予定したその日、新宿発の特急「あずさ」9号に乗り、約1時間40分で甲府駅に到着。

出迎えてくれた知人の車に乗り込み、出発。さて今年はどこへ行くのだろう。目的地を聞いても土地勘がないのでどっち方面へ行くのやら、ミステリー旅行気分になる。駅を出るとまもなく、正面に雪を頂いた甲斐駒岳や鳳凰山、さらに左手奥には南アルプスの一段と真白い峰々が見えてくる。甲斐の国に来たのだと、いつも心が躍る。

2時間あまり走って着いたのは、見延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)だった。途中〇〇宿坊という看板をいくつも見かけた。ここ一帯は修験道の聖地なのだろう。山道を登って駐車場着。そこから急な坂道を歩くこと数分。山の中腹に開けた広大な平地に着くと、大きな堂や五重塔など、いくつもの建物が並ぶ伽藍となっていた。
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    久遠寺 諸堂 案内図

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    右手奥から本堂、祖師堂

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    本殿前の立て札

まず本堂横を回って五重塔へ。そのすぐ横には、目もくらむような石段が谷底のように深いところまで続いている。この石段は菩提梯(ぼだいてい)と呼ばれ、山の麓に位置する三門から本堂までを一文字に結んでいるそうだ。
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     五重塔

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    三門へと下る石段を見おろす

石段の最上段から下を眺めおろしたが、下にある三門から約100メートルの高さまで287段ある石段を登って来た人々は、ベンチに腰を下ろし、汗をかき肩で息をしながら「きつい〜」を連発。この石段を登って本堂へ来るのが、本来の参拝の形なのだろう。

本堂は明治8(1875)年の大火で焼失したが、昭和60年5月に再建されたという立派な建物だった。本堂には靴を脱いで自由に中に入ることができた。地階には宝物が展示されているらしい。本堂から渡り廊下でつながっている祖師堂、総受付のある報恩閣、さらに仏殿などを歩いて見回った。
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    祖師堂

境内は広く、いたる所に枝垂(しだれ)桜が地面にまで枝を垂らしていた。ここは桜の名所でもあり、例年、満開のころは多くの人たちで賑わうという。わたしたちが訪れた5月1日は葉桜だったので、人はさほど多くなく、ゆっくりと境内を散策することができた。
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    枝垂桜

身延山久遠寺は縁起によれば、鎌倉時代に日蓮聖人によって開かれたお寺で、日蓮宗の総本山という。また祖師日蓮聖人のお山ということから祖山(そざん)とも呼ばれるという。日蓮聖人の入滅(1282年)から七百有余年の今日まで、その廟墓と法灯は歴代住職によって守られてきたそうだ。

信仰心の薄いわたしだけれど、神社・仏閣やヨーロッパの大聖堂などを訪れたときは、これらを築き営々と守り続けて来たいにしえの信仰心あつい人々を想った。そして静謐な気持ちに打たれ、しばし高い塔や聖堂の内部を仰ぎ見たものだ。この久遠寺の佇まいにも何か惹きつけられるものがあった。
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     本栖湖と富士山
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甲斐路を走れば、富士山はいつも突然に眼前に現れる。今回も帰路、本栖湖の向こうに富士山の雄姿を望むことができた。その大きさ、秀麗な姿、何度見ても拝みたい気持ちにさせられる。そういえば50年前の高校の修学旅行で、本栖湖と富士を背景に集合写真を撮ったことを思い出した。その後、車は有名な青木ケ原樹海のそばを通って甲府市へと向かい、甲斐路のドライブは無事に終わった。青天にも恵まれ、知人に感謝の一日だった。

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和製英語という日本語

2018/04/25 17:35
最近はテレビ番組の一部がパソコンやスマホのyoutube(ユーチューブ)にアップされることが多いので、気になる番組はパソコンで見ることが多い。先日は「ワタシが日本に住む理由」を見た。福岡市と北九州市の中間に位置する宗像(むなかた)市に住んでいる、アメリカ人女性アンさんが登場していた。

わたしは福岡県出身なので福岡には土地勘があり、彼女が住んでいる宗像も、勤め先である北九州市立大学も知っている。しかも彼女は日本語の中の和製英語を集めて研究しているというので、大いに興味を惹かれた。

日本在住16年の彼女は、日本語がうまい。というより、ちょっと変な博多弁を使ってテンポよくしゃべる。見た目は金髪のヤンキー風アメリカ人。黒の革ジャンにピアスもいっぱい付けて、話し方もあけっぴろげで、とても大学の准教授にはみえない。しかも3姉妹の母だという。

これまで日常会話の中で使われている英語由来の言葉を1,057語収録していて、それを基に「和製英語本」を作成中だという。現代の日本語には外来語が多く含まれているが、日本在住の英語圏の外国人は、自分たちに通じないヘンテコリンな和製英語をバカにするそうだ。

しかしアンさんはあるとき、「和製英語は日本語だ」と気づく。英語ではないのだから「ネイティブスピーカーが批判する権利は無い」と考えるようになり、それが和製英語の収録、そして研究へと発展したそうだ。ちなみにヤンキーも和製英語。

アンさんによれば、英語よりも和製英語のほうが分かりやすいものもあるという。たとえばベビーカーは英語で stroller 、ベビーベッドは crib 。なので、英語より和製英語のほうがずっと分かりやすいと。ほかに英語にはない和製英語の例として、パワースポットを挙げていた。

そんな和製英語を初めて聞いたときには、知らない単語なので「それ何?」と聞き返していた。けれども説明を聞くうちに「何て素晴らしい単語だろう」と逆に感心し、日本には「いいとこ取りの考え方がある」と、日本人の言葉に対する創造力の高さを評価していた。

ほかにも英語の単語を合体させて作った和製英語の例として、ベッドタウン(suburb)、スキンシップなど。アメリカ人の友人にスキンシップという言葉を使ったら、「皮から作られているボート」だと解釈したそうだ。シルバーシートも英語にはない和製英語。

アメリカにいた若い頃に摂食障害に陥ったことがあり、また腸が悪くて長い間苦しめられていたそうだ。宗像に来て日本人の友人にその話をしたら味噌作りを勧められ、手製の味噌で毎日みそ汁を作り、日本食を食べるようにな
って腸の調子が良くなり、健康になったという。

日本語の発音のきれいなところが大好きだというアンさん。大好きな日本語として「大判振る舞い」と「散りばめられる」を挙げていた。英語より日本語を話している時の方が、自分の個性が出せるような気がするし、ハッピーになれると話していた。久しぶりに面白くて元気をもらった番組だった。

  ※アンさんのブログ(日本語&英語)
   「アンちゃんから見るニッポン」
      https://ameblo.jp/annechan521/

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国籍とコスモポリタン

2018/04/11 19:15
外国滞在中は、命の次に大事だといわれるパスポート。その表紙裏には「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。」と明記され、「日本国外務大臣」の文字の上に朱色の角印が押してある。その下には同じ文言が英文でも表記してある。

その旅券を持って国外へ出ている間に、自分の国が消滅してしまうなどということは、日本人のわたしにはとても想像できない。だから安心して外国へも行くし、また戻って来られる。しかし世界中には、人間の生涯より寿命の短い国が現実に存在することだってある。

ヤドランカ・ストヤコヴィッチのことを知ったのは、2000年ごろ、偶然見たテレビ番組だった。ヤドランカという、日本語のイメージが沸くような名前を持つ彼女は、旧ユーゴスラビア出身の女性歌手。1984年、サラエボで冬季オリンピックが開催された際、テーマソングを歌った国民的な歌手だった。

日本人には馴染みの薄かった旧ユーゴ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の首都サラエボは、東洋と西洋文化の交流地点であり、コスモポリタン都市とも呼ばれていた。ソ連邦崩壊後の1991年、旧ユーゴ連邦内でクロアチアとスロべニア共和国が独立を宣言し、内戦に発展。それまでサラエボはクロアチア人、ムスリム人、セルビア人、ユーゴスラビア人が混ざり合って住む、つまり人種も宗教も関係なく共生していたコスモポリタン都市だったという。

ヤドランカは歌手として1984年に招待で初来日、1986年に2度目の来日をし、1988年には日本に移り住んで音楽活動を始めた。彼女は旧ユーゴ連邦発行のパスポートで日本に入国したが、日本滞在中に彼女の「国」は内戦で消滅。そればかりか戦火にさらされたサラエボでは、彼女の出生を証明する書類も、銀行預金も、父母の証明も、あらゆる書類が失われてしまったという。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国として独立した祖国を、日本政府が独立国家として承認した1996年まで、彼女には自分がどこの国の誰なのか、何も証明するものがない宙ぶらりんな状態が続いたのである。

ヤドランカの父はセルビア系、母はクロアチア系、祖母はイタリア人とクロアチア人を両親としているという。そのため親類の家に行くたびに習俗が全く違っていて、それぞれの家が外国のように感じられたという。コスモポリタン都市に生まれ育った、彼女らしいエピソードだ。

高校生の頃、彼女は美術教師であった母の本棚に安藤広重の画集を見つける。それがヤドランカと日本との最初の出合いだったという。広重の画集には小林一茶や正岡子規のローマ字表記の俳句が訳文付きで収められており、それを読んでいくうち、句の持つリズムが自然にメロディーを呼び起こし、曲ができたという。もちろん彼女は日本語を全く知らなかったが、サラエボ時代に作ったその曲の名は「HAIKU」だ。

ヤドランカは「何人(なにじん)か?」と聞かれたとき、クロアチア人ともセルビア人ともユーゴ人とも答えたくないという。彼女は「インディヴィジュアル(個人)です」と答え「コスモポリタン(世界人)として生きます」と。「HAIKU」は生まれながらのコスモポリタンである彼女にして、初めて表現できた歌なのかもしれない。

島国日本に生まれたわたしに、「国」や「国籍」って何だろうと考えさせてくれ、コスモポリタンとして生きる姿を見せてくれたのがヤドランカだった。彼女は仕事の為帰国した際、ALSと診断され、闘病中の2016年5月3日に亡くなった。命日が近づくこの時期になると、大好きだった彼女のことが思い出されて懐かしく、また悲しくなってくる。

  「ヤドランカ オフィシャルホームページ for Japan」
    http://jadranka-jp.com/
  ヤドランカと琵琶・琴とのコラボレーション(2009)
    https://www.youtube.com/watch?v=QCGoF2T2XUQ

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18歳と81歳の違い

2018/04/01 21:15
2カ月に1回、福岡県の北九州市でやっている読書会に出かけています。鹿児島から博多までJR九州新幹線、博多から折尾までは特急を利用。運賃も結構かかりますが、息抜きにもなるので楽しいものです。10人以下の少人数、来る者拒まず去る者追わずの自由な雰囲気も気に入って、もう13年目に入りました。

会場はJR折尾駅前の公共施設の研修室を借りていますが、必ず通る1階通路の壁に「面白い話」として、こんな張り紙がしてあります。題して「18歳と81歳の違い」。気になって見てみると、おかしくもありますが、自分も高齢者の仲間入りした身となっては、笑ってばかりもいられません。

作者の名前など書いてありませんから「読みびと知らず」として、勝手にここに転載させていただきます。もし「自分の作だ」とか、作者をご存知の方がおられましたらお申し出ください。作者名を明記いたしますので。

 ・恋に溺れるのが18歳、風呂で溺れるのが81歳

 ・道路を暴走するのが18歳、道路を逆走するのが81歳

 ・心がもろいのが18歳、骨がもろいのが81歳

 ・まだ何も知らない18歳、もう何も覚えていない81歳

 ・東京オリンピックに出たいと思うのが18 歳

 ・東京オリンピックまで生きたいとおもうのが81歳

 ・自分を探している18歳、皆が自分を探している81歳


まあ面白いというか、冷やかし半分にも取れますが、この「面白い話」が掲示されている意図は何でしょうか。高齢者の衰えぶりを笑うというより、誰でもいずれこうなりますよという、むしろ若者に向けた教訓めいた話にもとれます。

18歳の人が81歳まで生きられるかどうかは不明ですが、81歳の人が18歳から63年間に遭遇した出来事や経験というのは、18歳の若者には想像もできないほどの量のはず。それは同時に、これから大人になる18歳を待ち受けている、人生の荒波に匹敵するのではないでしょうか。

「人生100年時代」と言われ出した現在では18歳と81歳ではなく、「19歳と91歳の違い」としたほうが、より現実的かもしれません。学校に通っている若いうちは、自分が老人になるなんて実感はほぼありません。しかし「光陰矢の如し」の諺のとおり、月日は飛ぶように残酷に過ぎていきます。

わたしの感覚では小学生のとき、お正月が来るのを指折り数えて待っていた時代が、1年間が一番長かったように思います。ところが実際は1秒1分1時間の長さは万国共通、大富豪でも貧乏人でも万人共通なのが「時間」です。

わたしたちが日常使っている電化製品、車、文房具、医療機器、電子機器、衣食住に至るまで、過去の人々が発明したり改良に費やした膨大な時間の集積したものを、現在のわたしたちは当たり前のように享受しています。そんな時間について考えさせられた「18歳と81歳の違い」でした。

【後日談】ある読者からの情報によりますと、4月4日現在、わたしの見た張り紙はもう無かったそうです。また別の読者からの情報によりますと、2016年1月に<テレビの長寿番組『笑点』の大喜利コーナーで出されたお題への回答>だそうです。どうりで面白いはずですね。ご参考までに張り紙の写真を添付します。

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 ※参考 「国語大辞典」小学館 昭和56年12月10日第一版

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高校卒業50年同窓会

2018/03/14 20:20
先日、福岡県久留米市で高校卒業50年の学年同窓会が開かれ、出席しました。3年前のこの時期にも同窓会があって出ました。そのとき欠席だった人に久しぶりに会えて喜んでいると、逆に前回元気だった級友(男性)が亡くなったと聞いて、ショックでした。

1クラス50名が9組まであって、学年全体で450名でした。団塊世代のしんがりのわたしたちは、小・中・高と常に机は教室の後ろの壁近くまであるのが普通。いつも競争にさらされ、高校受験も大学受験も就職も押し合いへし合いの連続だったように思います。

クラス担任9名のうち、すでに亡くなられている恩師は3名。今回は3名の先生方が参加されました。わたしのクラス担任だったE先生は女性で、なんと92歳で足も頭もしっかりされています。男性はY先生83歳、M先生81歳のお二人で、こちらもまだまだ元気いっぱい。先生を囲んで思い出話に花が咲きました。

開会の辞のあと、亡くなった級友たちへの黙祷。そして校歌を斉唱しました。歌詞は配られましたが、遠い昔の校歌が普通に歌えるから不思議です。すぐ分かる人、誰だっけと思い出せない人、さまざまですが、全員名札を首からぶら下げているので、ちらっとそれを見て顔を見て、再確認でした。

女性同士は話していると声や話し方の癖などが思い出されて、すぐに50年前に戻って割とわかります。それにくらべると男性は見た目の変貌が激しいように感じます。ところが男性に言わせると、男同士は分かっても、女性は化粧もしているし変わっていて誰だか分かりにくい、という真逆の意見でした。

以前まで配られていた住所録が今回はなくて、会場のテーブルに各クラスごとの名簿がずらりと並べられただけ。「持ち出し・複写厳禁」の文字の横に、必要がある人のみ各自メモしてください、との注意書きがありました。個人情報保護の観点から、致し方ありません。

卒業後50年ともなれば、どのクラスにも亡くなった級友が数名はいて、それを知った時には何とも言えず悲しくなります。50年の間にはそれぞれに艱難辛苦や試練があったにしても、同窓会に出てきた人は、現在はおおむね平穏に暮らしているのだろう、と思ったことでした。

早世した級友で思い出すのは、コーラス部で一緒に歌っていた2人の女性です。一人娘のAさんはピアノが得意で、甘いお菓子が大好きでした。実家を離れて短大に進学しましたが、正月に帰省したときに水をがぶ飲みし、新調した振袖を成人式に着ていくのを楽しみにしていたそうです。でも式の数日前に、糖尿病のため下宿先で亡くなったというのです。

Bさんは心臓に持病があり、卒業後は就職も進学もしていなかったとか。ある夜、彼女の部屋が遅くまで明るいので母親が様子を見に行くと、部屋中に四季の服が散らばり、Bさんは好きな服に着替えては姿見の前に立ち、ニッコリしていたそうです。虫の知らせというのでしょうか、彼女は翌日亡くなりました。二人とも19歳の若さでした。

その年はお葬式と初盆が続いて、同級生にとっては悲しい1年でした。初盆にAさん宅に数人でお参りしたとき、「あなたたちはこんなに元気なのに、なんでうちの娘だけが」と、ご母堂に泣かれた時は、皆うな垂れて辛かったことを思い出します。もう彼女たちの何倍も長く生きたのだなあと、最近はこうして生きていること自体、ふと不思議な気持ちになるのです。

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