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2012/01/04 10:12
◆1931年から1932年にかけて林芙美子はパリにいました。「放浪記」を書いて一躍人気作家となり、その印税でパリに行ったのです。そのとき芙美子はまだ28歳の若さ。日本に夫・手塚緑敏と母を残しての渡欧は、宿命的な放浪者であった芙美子にとって、次の飛躍を考えての必然だったのかもしれません。
1931(昭和6)年11月4日、東京を出発した芙美子は下関から釜山へ渡り、さらに安東から長春、ハルビン、モスクワを経由して、23日早朝、パリのノルド(北)駅に到着します。そこから車で5個の荷物と共に最初の投宿先、ホテル・リオンに落ち着くという長い旅程でした。
飛行機で十数時間でパリに着く現代とは違い、出発してから韓国・中国を経てシベリア鉄道経由でフランスへ向かい、目的地のパリ到着まで19日間かかっています。しかもこの年の9月は満州事変が勃発したという状況下にあり、現代の海外旅行とは段違いに大変な道中だったことでしょう。
芙美子は着いたその日から日記と小遣い帳をつけています。それによればパリまでの旅費は379円25銭で、当時の日本の公務員初任給75円で換算すると約5ヵ月分に当たります。芙美子は210アメリカドルを持参し、パリへ着くとすぐ日仏銀行に行き、4,350フラン分を両替して預けています。
パリでの1ヵ月の生活費を部屋代・食費・雑費等で810フランと予算を立てていますから、両替したフランは5ヵ月分に相当します。芙美子のパリ日記と小遣い帳を見ると、当時の生活をありありと想像できます。その日記の1932年1月1〜3日にはこう書いてあります。
1月1日(金曜日)
千九三十二年の元旦だ。
起きたらやはり巴里だつた。オキシフルで口を洗つて、高い窓から
四方拝をした。巴里にしては、とてもいゝ天気だつた。朝、バルザ
ックの「ことづけ」を読む、バルザックも案外甘さのある男だ。ひ
るからオウダンと云ふ東洋ビイキの仏蘭西人の家へ行く。(略)面白
くなくて途中出る。サンミツシヱルでシネマを見る。(略)
──巴里に四十日私は始めて自分の影を見た。元気で仕事に野心を
持つ事だ。朝、森本氏と田島氏来訪。
1月2日(土曜日)
まだお正月だ、──(略)
仕事をしたい気持ちでいつぱいなのだが、──夕食はフランス飯屋
へ行つた。スープにキモに、ほうれん草にビスケツト、外山氏と別
かん定でたべて分かれた。
1月3日(日曜日)
森本氏来訪いつしよに出て、(略)夕方サンミツシヱルで別れて、一
人でかへる。とてもにぎやか、夜店が沢山並んでゐた。靴下と靴が
一足買ひたい事が、理想なのだが、ぜいたくな気持ちかな。かへり
ダンフヱルの公園のそばで、風琴ひきの唄をきく。室内よりも外が
いゝと云ふ事は何と云ふかなしむべき事なのだらう。
またこの日記帳の空白ページに、芙美子はちょうど80年前、1932年のパリの空の下で一人新年を迎えた心境を記しています。芙美子の気宇壮大な心ばえにあやかり、ここに紹介して新年の言葉に代えたいと思います。
一九三二年の譜
太陽の心もて我にうれいなからしめよ
窓をあけて私は巴里の空を見る
苔むした窓々から正月の唄が流れ
私の部屋の中には、去年のまゝの
すがれたミモサの花が、金に光つてゐる
私は思はず双手を合掌して
何にともなく祈つた
遠い日本の皆が元気でゐますやうに──
あの雲のながれ
あの陽の光だけは
日本のみんなを
知つて来たの
だらう。
※参考 今川英子編『林芙美子 巴里の恋』中央公論社刊
2001年初版 1,900円
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