アクセスカウンタ

一樹の蔭、一河の流れ

プロフィール

ブログ名
一樹の蔭、一河の流れ
ブログ紹介
文芸サイト「文学夢街道」管理人の杉山武子です。
実りある60代をめざして、読書・映画・旅行など日々の活動から思うこと感じることを書いて、水曜日にアップしています。
ブログ名は平家物語の「一樹の蔭に宿るも前世の契り浅からず、同じ流れにむすぶも他生の縁なほ深し」に由来しています。
どうぞよろしく! 
(メールマガジン【僕らはみんな生きている!】でも配信中)
メルマガ配信登録は、こちらからどうぞ。
  http://www5a.biglobe.ne.jp/~takeko/melmaga.htm
 
zoom RSS

漢字について思うこと

2016/09/14 00:49
ちょうど10年前のこと。ウイグル自治区に行くために、上海国際空港から中国国内線の空港までシャトルバスで移動した。約50分かかったが、その間中、バスの中は賑やかな話し声に交じって、若い歌手による流行歌がビデオで繰り返し流れていた。画面にはカラオケと同じように歌う部分だけ歌詞が現われる。その歌詞を急いで手帳に書き留めた。例えば

 ♪男的女的都会・・・自由自由現在就要自由・・・幸福的所在♪

聞いても中国語はわからないけど、文字でならなんとなく歌詞の意味が想像できる。ただし現代の中国の漢字は簡体字なので、痛々しいほどの略字になっていて、これは漢字? と思うことも多いが、アルファベット文字よりも具体的なイメージが浮かびやすいところが面白い。

中国語では外来語も全て漢字表記なので、イラクは「伊拉克」と当て字で、アメリカは皮肉にも「美国」と表記している。空港で見た都市の表記では、巴黎(パリ)、莫斯科(モスコー)、澳門(マカオ)など苦心のあとがうかがえる。日本の場合カタカナ表記という強い味方があるが、古くは西洋の学問を漢字で言い換えることが国策として行われた。

江戸末期から明治初期の日本では近代化を急ぐ必要から、日本にはなかった概念を西欧から輸入する際、訳語・新語がさかんに作られている。明治期の新語作りで最も有名な学者は西周(にしあまね)だ。彼が西洋の言葉からこしらえた新語は、哲学、文学、概念、演繹、帰納、主観、客観、観念、現象、抽象、本能、命題、体験など多くある。当時の学問は漢文であったため、横文字を日本語に訳す場合、典拠のある由緒正しい文字列を見つけることが重要だったという。

他にも明治期の新語に、会社、市民、平等、宗教、恋愛、科学、芸術、彼女、などがあり、作者の分かっている言葉では、演説(福沢諭吉)、郵便(前島密)がある。産業という概念を広めた人は前田正名(まえだまさな)という。西周ら先人の作った日本製の漢字語の多くは、中国や韓国にも導入されて、現代用語のかなりの部分を占め、使われているそうだ。

ところでインターネット上には玉石混交、いろんな国のいろんな人々の意見が溢れている。誰もが実名や匿名で意見を言える時代になったのだから、これも進歩といえるのかもしれない。最近、ある中国人の意見に「漢字は中国のものだから、漢字を使っている日本語は著作権侵害だ」という趣旨のものがあった。

漢字の著作権云々の問題でいうと、以前紹介したことのある中国社会科学院文学院の李兆忠さんの文章「漢字が表す二つの世界」が、上の意見のひとつの答えになっていると思う。つまりお互いさまということだ。李さんの文章は中国の漢字と日本語について客観的、歴史的視点から論じられており、かつ漢字の日本での発展に対する尊敬の念が感じられる。一部を引用すると、

率直に言えば、現在の中国で使われている中国語の語彙の多くは、20世紀初めに日本から導入されたものだからだ。たとえば「金融」「投資」「抽象」など、現代中国語の中の社会科学に関する語彙の60〜70%は、日本語から来たものだという統計がある。(中略)

漢字をこのように創造的に「すり替え」、もう一つの漢字王国を樹立し、かつまた中国語へ「恩返し」 しているのは、日本だけだ。日本のすごいところは〈中略)自発的にそれを手に入れ、徹底的にそれを消化した後、自分の必要に応じて大胆な改造を行い、自分の言語にしてしまうところだ。だからこそ漢字は、日本にしっかりと根を下ろし、西洋文化の猛烈な襲来に耐えることができたのである。


李さんは「もし日本が、漢字を借用して西洋の概念を置き換えることをしなかったら、現代の中国語はいったいどのようになっていただろうか」とも書いている。日本人は常用漢字の習得にかなりの時間を割き、さらに訓読み、音読み、同音異義語、平かな、カタカナも覚える必要がある。そのために若いうちから脳みそを使い、鍛えていることになると思う。その努力の上に、日本固有の文化が築かれているのではないだろうか。 

 ※引用は 
 「漢字が表す二つの世界」(中国社会科学院文学院 李兆忠 氏)より       

 ♪ 管理者ウェブサイト 「杉山武子の文学夢街道」 

記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0


あなたではなく、わが子だったら

2016/08/31 01:44
40年以上もまえのこと。初めて妊娠したとき、自分の中にもう1つ別の命が宿っているという不思議な感覚で毎日を過ごしていた。ある日、電車に乗って長椅子の空いた席に腰を下ろすと、通路をはさんだ向かい側に小さい子と若い母親が並んで座っていた。わたしもあんなふうにお母さんになるのかなあと、その母子を何気なく見た。

若くてきれいなお母さんだなと思ったが、子どもの様子がなんか変だった。1歳か2歳ぐらいの男の子のようだったが、姿勢がぐにゃっとして常に揺れるように動いている。表情もはっきりしない。けれど母親は平然としていて、その子を慈しむように何か小声で話しかけている。

その子は障がいを持っているのだと気付いた。次の瞬間、わたしは恐怖心に襲われた。あんな子が生まれたらどうしようと。順調におなかの中で育っているので安堵していたが、命を産むということ、親になるということの責任の重大さを目の前に突き付けられて、わが子が無事に生まれるまでの数か月間、恐怖心から逃れられなかった。

最初のときほどではなかったが、2度目の妊娠中も心のどこかに万が一の覚悟を持って出産を迎えたように思う。高校時代の友人は早くに結婚したが、第一子が口蓋裂の障がいを持って生まれた。生後数カ月ごろ出産祝いのため、県外の友人宅を訪問して初めてそのことを知った。

友人はバギーに乗せた赤ん坊の口元が見えないように、顔半分をケットで覆い、姑さんに気兼ねして一緒に散歩に出た。友人はなんでこんな子が生まれたのかと暗に責められたといい、わたしもショックで、2人して田舎道を泣きながら歩いた。その子は合併症もあり、20歳で亡くなった。

次女が小学生となって、初めての運動会だった。全学年約500人の児童とそれ以上の数の保護者で賑わっていた。1年生のダンスの番が来た。その中にたった1人、車いすの男の子がいて、みんなと一緒に楽しげに踊っていた。それを見ているうち、なぜか涙がポロポロとこぼれた。人が500人、1,000人と集まれば、からだのどこかに障がいを持った人は必ずいるものだと思う。

それは生まれながらのものかもしれないし、外見では分からない障がいかもしれない。普通に生まれても、その後、10万人に1人とかいう難病にかかる人だっている。その1人を誰かが背負っているのだ。500人の児童のうちたった1人、車椅子のあの子が障がいを引き受けてくれている。それはわが子だったかもしれないのに。そう思って涙が止まらなかった。

そんなふうに考えるようになったのは、当時読んでいた神谷美恵子さんの本の影響だったと思う。神谷さんは恵まれた生育環境の中で精神科医となり、戦後は文部大臣になった父・前田多門の秘書も経験。結婚後、2児の母となり大学で講義をしながらが、ハンセン病患者の施設長島愛生園に治療に通い続けた人だ。

神谷さんは『生きがいについて』『こころの旅』など多くの著書があるが、『若き日の日記』の中に、こんな部分がある。

 6月24日(1943年29歳)
 たくさんの恩恵にあふれている私は、不運な人々――病める人、
 不幸せな人、性質の悪い人、精神病の人――等に対して大きな
 大きな負い目を負っているのだ。あの人たちは私に代わって悩
 んでいてくれるのだ。人類の悩みを私に代わって負っていてく
 れるのだ。

 12月20日(1943年29歳)
 恩恵は人類共通の財産だ。その分け前を多く享けたものは少し
 でも多くそれを以って人をうるおせ。そうせずに、なおもっと
 恩恵を頂こうとするのは、それは「むさぼる人」のすることだ。


こんなことを書く気になったのは、先月相模原の障がい者施設で無差別殺傷事件が起きたから。犯人は19人も殺して英雄気取りだったのが気になる。何か思い違いをしているのではないか? 障がいを持って生まれた人は、もしかしたら犯人の代わり、わたしやわが子の代わりに引き受けているのかもしれないのに。だからこそ障がいを持つ人たちは、社会全体で大切にしないといけないとわたしは思っている。


  引用:神谷美恵子著 『若き日の日記』著作集・補巻1
     1984年12月20日発行 みすず書房 定価1700円
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0


国際オーガニック映画祭 in KAGOSHIMA 2016

2016/08/13 11:47
毎年秋に恒例となっている、国際オーガニック映画祭がわたしの住む鹿児島市内で開催されます。主催:NPO法人鹿児島県有機農業協会/オーガニック映画祭かごしま実行委員会、共催:一般社団法人鹿児島コミュニティシネマです。メインテーマは、

「いのちをつなぐ 食を見つめる」 食・農・環境 未来へつなぐ 暮らしをさぐる

9月9日(金)、10(土)、11日(日)の3日間、鹿児島市の繁華街にある商業ビル・マルヤガーデンズ(鹿児島市呉服町6−5 ) 7階のミニ映画館、「ガーデンズシネマ」で開催されます。

どの映画も、いわゆるシネコンと呼ばれる興業収入優先の映画館では上映しない、見ごたえのある映画ばかりです。

下記は映画祭のパンフレットです。鹿児島市とその周辺にお住いの、食の安心・安全にご興味のある方は、どうぞ小さな映画館へ足をお運びください。

チケット料金等は、上映スケジュールの下部のほうに明記されています。お得な前売り券1作品1,100円、全作品が1回ずつ鑑賞できる通し券 3,300円 もあります。

   ※画像をクリックすると、拡大します。

画像


画像


画像


画像


また今回の映画祭では、9月19日(月・祝)に、「特別上映&講演会」も開催されます。場所は、鹿児島県歴史資料センター 黎明館 講堂 (鹿児島市城山町7−2)です。
詳しくは下記をご覧ください。講演会は無料ですが、映画鑑賞にはチケットが必要です。

画像


わたしたちの口に入る食料の大半を外国からの輸入に頼っている日本。その食べものについて、もう一度自分や家族の問題として、考えてみるきっかけにしませんか。マルヤガーデンズシネマは、以前わたしも受付やもぎりのボランティアをしていた大好きな映画館です。みなさまのご来場をお待ちしております。

※お問合せ先 
     NPO法人 鹿児島県有機農業協会 099−258−3374
     ガーデンズシネマ 099−222−8746



記事へナイス ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


ぎなのこるがふのよかと

2016/08/10 00:51
10年ほど前、昭和6年生れのKさんからこんな話を聞いた。Kさんは東京生まれ。その後家族と中国へ渡り、奉天(現・瀋陽市)のとある部隊の要塞の中の、高射砲陣地や憲兵隊のいる環境で生活し、飛行場を下に見ながら少年時代を送ったという。敗戦とともに状況は一変し、命からがら引き揚げの末、福岡県の筑豊地方へ。

食うや食わずの引揚者なので、何とか職にありつこうと、当時景気の良かった炭坑夫を志願。しかし入れないというので、会社の採用係を招待して、焼酎飲ませ酒飲ませ、ご馳走攻めの賄賂まがいの手を使ってめでたく就職したという。ここからKさん19歳の炭坑労働者としての人生が始まった。

それから約10年後の戦後日本は、1960年(昭和35)安保闘争を挟んで政治運動と労働運動が激化し、ピークを迎えていた時代。そのころ福岡県筑豊地方の中間市に、文学や詩や演劇・映画などの文化創造運動を旗印にした「サークル村」が誕生した。その中心となったのは、炭坑労働者・技術者・会社員・教員・紡績女工・主婦など一般の人々。当時日本中に高まっていた労働運動の熱気の中から、躍りだすように生まれた集団だった。

エネルギーの塊のような集団は、その言語表現・発表の場として月刊の機関誌「サークル村」を創刊。約3年間発行された。「サークル村」の中心的な推進者だったのは、詩人・谷川雁と作家・上野英信の2人。この「サークル村」から出発し、のちにそれぞれの課題を持って優れた書き手に育ったのが森崎和江、石牟礼道子、中村きい子である。

「サークル村」の中心的存在だった谷川雁は、炭鉱労働者たちを組織して活動したが、「サークル村」の終焉とともに筑豊を去り、あっさり東京へ行く。その後の彼には「転向者」「裏切り者」などのレッテルが貼られたが、「サークル村」の活動を一緒にやって谷川雁と身近に接してきたKさんは、そんな風評を真っ向から否定した。

谷川雁は多くの詩を書いているが、ある詩の最後に「ぎなのこるがふのよかと」の一行がある。それにはごていねいに(残った奴が運のいい奴)という注までついているのに、Kさんにはその一行の意味がずっと理解できなかったそうだ。福岡地方では「ふ」は「運」の意なのでわかるが「ぎなのこる」の意味と、全体として何をいいたいのかが理解できない。

70歳を過ぎたころ水俣市在住の知人にこの話をすると、それは子どもの遊び唄にあるという。誰かを選ぶときに、左手をグーにして凸凹になった指の節を、「ぎなのこるがふのよかと」といいながら、1つずつ数えていく。それを聞いた東京育ちのKさん、ピンと閃いたそうだ。関東では左手をパーに開いて、誰かさんを指名するとき「だれにしようかな かみさまのいうとおり」とやるのを。

Kさんはいう。私は昭和一ケタ生まれ。僕らはゆりかごの中で育って、平和な中で今日あるわけではないんです。本当に食うや食わずで、戦場で、爆弾で犠牲になって死んだ人も多いのに、戦争をくぐり抜けてよう生きとった。つまり「ふがよか」生き残りなんです、と。そのKさんは数年前に亡くなった。

こんなことを思い出したのも、8月には広島と長崎の原爆忌があり、被爆者も高齢化して語り部が少なくなっていると聞いたからだ。少し前のこと、修学旅行生に被爆体験を語っていたご老人に、「この死にそこない」と暴言を吐いた高校生のことが話題になった。このニュースを見たとき、突然わたしは「ぎなのこるがふのよかと」という言葉を思い出したのだ。

わたしはその高校生に言いたかった。「あなたには親がいて、祖父もいるはず。その祖父の世代は戦場に送られ、帰って来た生き残り組ですよ。つまり死にそこなったからこそ、あなたの親が生まれ、あなたが生まれたんです。おじいさんが戦死したなら、あなたはこの世に存在しません」と。私を含めいまの日本人の大多数は、あの戦争で「ふがよくて」生き残った人々の子孫であることを、終戦記念日を迎える暑い夏に思いおこしたい。

 ♪ 管理者ウェブサイト 「杉山武子の文学夢街道」 
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0


クシシュトフ・ヤブウォンスキを聴きに行く

2016/07/26 10:46
現在鹿児島で開催されてる「霧島国際音楽祭」ですが、先日のザビエル教会コンサートに続き、昨日はピアニストのクシシュトフ・ヤブウォンスキさんのさんのコンサートに行ってきました。ヤブウォンスキさんは1965年ポーランドのヴロツワフ生まれで、1985年第11回ショパン国際ピアノコンクール第3位入賞。このときの1位はブーニンで、4位に小山実稚恵さんが入賞されています。

わたしが初めてヤブウォンスキさんの演奏を聴いたのは、2012年。霧島国際音楽祭・ザビエル教会でのピアノリサイタルでした。ポーランド出身の彼は、同じポーランド人・ショパンの曲を得意としています。教会で初めて聴いたショパンの曲の数々は、繊細な旋律はあくまでの繊細でありながら、盛り上がる所では情熱的でダイナミックな演奏。その力強いショパンがとても印象的で、心をわしづかみにされてしまったのです。

霧島国際音楽祭に来鹿されるたびに、ヤブウォンスキさんの演奏を聴きに行っています。今年は鹿児島市民文化ホール第2を会場に、オールショパンプログラムでした。ヤブウォンスキさんの演奏は、端的に言えば、わたしには疾走するイメージです。繊細でかつスピードがあり、力強さが魅力だと、わたしは感じています。

画像
       当日のチケット半券

前半は「2つのノクターン」「子犬のワルツ」「舟歌」「3つの華麗なる大円舞曲」、練習曲の「黒鍵」「革命」「木枯らし」と約45分間の熱演でした。ピアノリサイタルを聴きに行くときは、いつも演奏者の手先が見えるように、舞台の中央に置かれたピアノに向かって、やや左寄りの席を取ります。今回もばっちり、鍵盤のうえを舞うように動くヤブウォンスキさんの指の動きが見えて、その音色と共に2倍楽しめました。

休憩をはさんで、後半にはこれもショパン作曲「ピアノ協奏曲 第1番」が演奏されました。この曲はふつうオーケストラ編成で演奏されます。協奏曲の名の通り、オーケストラとピアノが交互に、あるいは一緒に、文字通り双方が協奏する演奏スタイルです。

しかし今回はオーケストラとではなく、「室内楽版」でのピアノ協奏曲第1番でした。共演は、カルテット・アマービレのみなさんにコントラバスの長谷川信久さんが加わり、総勢5名の弦楽器のみの構成です。当日入場の際いただいたプログラムには、「ヤブウォンスキ氏が考える、ショパン作曲 ピアノ協奏曲第1番の聴きどころとは?」と題した文章が掲載されていました。

その出だしは「この曲の私の解釈は、いわゆる世界でトレンドとなっている、主流の解釈とはちょっと違うかもしれません」で始まり、ヤブウォンスキさんの考えが詳しく述べられています。

ショパンは協奏曲を第1番と第2番の2曲作っていて、そのどちらもわたしの大好きな曲です。これまでいろいろなピアニストとオーケストラとの組み合わせて、ライブ演奏やCDで、数多くこの2つのピアノ協奏曲を聴いてきましたが、室内楽版で聴くのは初めての経験です。

通常数十人から時には100人近い大編成のオーケストラとの協奏ではなく、わずか5人の奏者との協奏曲はどんなものかと、大いに興味がわきました。冒頭の長い導入部は弦楽器のみでスタート。第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスそれぞれが奏でる音はあくまでもシンプルで、音量も大きいとは言えません。でもその分、繊細な旋律が手に取るように、1つ1つの楽器の旋律の違いまではっきり、しかもピタリと合わさって聞こえます。

そこにやがてピアノが力強く、最初はソロで始まります。オーケストラをバックの演奏では、時にピアノとオーケストラの競争のように聴こえて、それがまた魅力でもあります。けれども室内楽版では、ピアノの部分が曲の大きな幹だとしたら、5つの弦楽器はその幹をやさしく覆っている小枝や木の葉に思えました。主役はあくまでもピアノであっても、そこに風にゆれる木の葉の揺らぎのような繊細さが加わり、幹を盛り立てていくのです。

画像
         CDのジャケット

ますますヤブウォンスキさんの演奏が好きになり、今回もまたCDを1枚買いました。こちらはベートーベンのピアノソナタ曲集です。ヤブウォンスキさん、来年も霧島国際音楽祭にぜひ来てくださいね。

記事へナイス ブログ気持玉 7 / トラックバック 0 / コメント 0


ザビエル教会コンサート

2016/07/24 14:52
ことしもやってきました「霧島国際音楽祭2016」。何と第37回目を迎える歴史ある音楽祭です。鹿児島県霧島市の「みやまコンセール(霧島国際音楽ホール)」をメイン会場に、鹿児島市内の宝山ホール、市民文化ホール、ザビエル教会などで、ことしは7月15日に始まり、8月7日までの日程で現在開催中です。

つい先日の7月22日は、ザビエル教会でコンサートがあり、行ってきました。今年は午後の部@と、夜の部Aと、1日に2回公演という初めての試みでした。毎年ザビエルコンサートに行っているわたしは、もちろん@A両方のチケットをゲット。

画像
    第37回「霧島国際音楽祭」パンフレット表紙

14時00開始のコンサート@は、バッハ(グノー):アヴェ・マリア、ヘンデル:歌劇「リナルド」より゛私を泣かせてください″、イタリア古典歌曲等を、鈴木優人さんのチェンバロとパイプオルガンの伴奏で、鹿児島県出身の馬原優子さんが艶やかで豊かな声量で歌い上げられました。

画像
    開演前。祭壇に置かれたチェンバロ

後半は、ヴィバルディの「四季」です。演奏者は、鈴木優人さんの指揮&チェンバロ、川久保賜紀さん・成田達輝さんのヴァイオリン、猿渡友美恵さんのヴィオラ、原田哲男さんのチェロ、長谷川信久さんのコントラバスという豪華な編成です。40数分に及ぶ「四季」全曲を思い切り堪能。400人の聴衆がいるとは思えないほど静まりかえった教会内に、弦楽器の豊かな強弱の音色が充ち充ちて、ほんとに贅沢な時間を過ごしました。

今回初めて14時スタートという公演でした。空調はあったようですが、わたしのいた2階席は、かなり暑かったです。外は35度近い猛暑。「四季」演奏中は教会のステンドグラスを通して西日が楽器や奏者に降り注ぎ、光り輝いて見えました。演奏者には長時間日が当たり、相当暑かったろうと思いましたが、それでも7人の熱演に聴衆も集中して聴き惚れ、双方汗をかきかきの、すてきな真夏の教会コンサートでした。

19時開始のAコンサートは、オール・バッハ・プログラム。わたしの大好きなバッハの曲を、オルガンとチェンバロでしかも教会で聴けたのです。演奏者は@にも出演された鈴木優人さんで、オランダにお住まいだそうです。

演奏されたのは、オルガン・ソロ5曲、チェンバロ・ソロ5曲でした。オルガン・ソロはもちろん教会の2階にあるパイプオルガンでの演奏です。特に最後の3曲は、トッカータとフーガ 二短調 BWV 565、フーガ ト短調「小フーガ」 BWV 578、パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV 582、と超有名な大作ばかりです。久しぶりのパイプオルガンの音色に、心満たされました。チェンバロ・ソロではイタリア協奏曲や平均律クラヴィーアなど、バッハらしい音色を楽しむことができました。

画像

     2016年7月23日付 南日本新聞朝刊記事

画像
      パイプオルガン


教会ですので、1回の公演で400席しかありません。そのためいい席を取ろうと、発売開始と同時にいつもチケットを手に入れます。毎年夏の楽しみの1つが終わってしまいましたが、来年はどんなコンサートかなと考えて、もういまから楽しみにしています。明日はまた別のコンサートに行ってきます。

  ♪ 管理者ウェブサイト 「杉山武子の文学夢街道」 


記事へナイス ブログ気持玉 5 / トラックバック 0 / コメント 0


アトランタとマーガレット・ミッチェル 

2016/07/20 01:42
アトランタはアメリカ合衆国南部に位置するジョージア州の州都で、1996年夏にオリンピックが行われ一躍世界の注目を集めました。そこに17年前、個人旅行で行ったことがあります。泊まったホテルも利用した地下鉄も圧倒的に黒人で占められ、さすがに南部の町だと実感したものです。最近アメリカ各地で黒人と警官の間で銃撃での殺し合いが続いているので、ふとアトランタのことを思い出したのです。

アトランタは現在では住民の約6割が黒人だそうで、公民権運動指導者だったマーチン・ ルーサー・キングJr.の出身地でもあります。またニュース番組で有名なCNNセンターやコカ・コーラの本社があります。CNNセンターの巨大な建物に入ると見学コースがあり、放送中のスタジオや編集室などをガラス越しに見られます。大勢の観光客で賑わっていました。

アトランタには別の目的で行きましたが、丸一日の自由時間があったので、地図を片手に一人で街歩きをしたのです。次にマーガレット・ミッチェルが住んでいた家を目指しました。そこは記念館になっており、市の中心部からマルタ・トレインを利用してミッドタウン・ステーションで下車、歩いて2、3分の場所にありました。

ミッチェルは1900年にアトランタで生まれ、育ち、1925年にジョン・マシューと結婚します。新婚当初から住んだのがアトランタのアパートで、そこで10年をかけて「風と共に去りぬ」を書いたのです。この長編小説はアトランタ郊外の架空の大農園タラが舞台。南北戦争を背景に、勝気と虚栄心と行動力で生き抜くヒロインのスカーレット・オハラはあまりにも有名です。小説を読んでいなくても、映画を見られた方は多いと思います。

画像
         マーガレット・ミッチェル記念館(1999年 筆者撮影)

記念館として保存されている建物は、外見からは大きな一軒家のようにも見えますが、内部は10世帯ほどが住んでいたアパートだったそうです。玄関は共同で、ミッチェル夫妻が使っていた部屋は割と狭い、日本でいうところの2DKくらいの広さでした。コンパクトにまとまり、新婚夫婦にはぴったりの住まいだったことでしょう。

画像
        タイプライターの置かれた居間(絵葉書)

室内には家具や調度品、台所の調理器具などが当時のままに復元されて、ミッチェルの使っていたというタイプライターが居間の小さなテーブルに置いてあり、当時の雰囲気を偲ぶことができました。主婦業の傍ら図書館に通いつめ、南北戦争の歴史を調べて書き上げた大河小説がこんな場所で生まれたのだと、ジンと胸に迫るものがありました。

画像
          マーガレット・ミッチェル(絵葉書)

実はこの建物は放火などで2度も火災に遭ったそうで、現在は修復されて「Margaret Mitchell House & Museum」として公開されているのです。見学はビジターセンターで申し込み、30分おきにガイドさんが20名ほどを連れて、各部屋を英語で説明しながら回ります。管理が厳重なので自由に見て回ることはできませんでした。またガイドさんの説明も私の英語力では理解不十分でしたが、目で見て楽しみました。

各国で翻訳された本やミッチェルの自筆手紙などの展示もあります。最後の展示室でガイドさんは、ミッチェルが晩年に出版や映画化などで得た収益の一部を、黒人の地位向上のため慈善事業に使ったことを力強く説明していました。記念館内では写真などの撮影は禁止されていたので、代わりとなる絵はがきを購入しました。

隣接する博物館では映画「風と共に去りぬ」関係の写真や衣装が展示されていました。世界中で聖書の次に売れたという大ヒット作を書いたミッチェルは、大きな名声と莫大な利益を得ましたが、その後は再びペンを取ることはなく、「風と共に去りぬ」の著作の権利を守ることに奔走させられたともいわれています。

作品が世界中で読まれている半面、奴隷制度を美化しているとの批判を受けて元の住まいが放火されるなど、「風と共に去りぬ」はアメリカ社会の全ての人々に受け入れられていない側面も根強くあるようです。黒人の地位向上のための慈善活動も、 ミッチェルは匿名で行っていたそうです。マーガレット・ミッチェルは1949年8月、アトランタで交通事故のため、49歳で亡くなりました。

記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0


続きを見る

トップへ

月別リンク



一樹の蔭、一河の流れ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる