竈(かまど)の記憶

竈(かまど)という漢字は読むのも書くのも難しく、現在はほとんど使われないし、竈自体が一般家庭から消え去って久しい。いまではその役割は電気釜やガスコンロなどにとって代わったが、60数年ほど前までの日本人は竈に乗せた羽釜(はがま)で炊いたご飯をいただいていた。

その竈が最近、一躍有名になった。というのもアニメーション映画「鬼滅の刃」の主人公の名が、竈門炭治郎(かまどたんじろう)だったからで、福岡県の有名な太宰府天満宮の北東に竈門神社があり、そこは今、アニメの聖地になっているそうだ。学生時代、その神社で書道部の合宿をしていたので懐かしさもひとしお。

わたしの竈の記憶は60数年前の、小学3年生頃のこと。ある朝早く目を覚ましたので、雨戸の閉まった薄暗い部屋を抜け出し、居間を通って板の間へ行った。その先は炊事場のある土間で、井戸や流し、2つ口の竈があった。当時のわが家は祖父母と両親と子どもたち、父の弟一家が同居していて、12人の大所帯だった。

父と母が大きな羽釜を乗せた竈の前に並んで腰を下ろし、麦わらの束を絶えず焚口に足していた。火の勢いが増すとパチパチと麦わらのはぜる音がして、羽釜の分厚い木のフタの下から蒸気がシュンシュン吹き出していた。ふたりは斜め後ろの土間に立っているわたしに気付かず、低い声で話していた。

大家族の中で子どもたちも幼くて、ゆっくり話し合う時間もなかったのだろう。いま思えば、早朝の竈の前は、夫婦だけで語り合える唯一の場所だったのかもしれない。声を掛けようかと迷っていると、「S子がね」と母が妹の名前を言った。元気もんでハキハキして先生から褒められたと。「そうか」と嬉しそうな父の声。

「それに比べると」とさらに母が言ったとき、ドキッとした。長女のわたしはおとなし過ぎて物足りないと。子供たちの様子を父に報告して成長を喜んでいるに違いなかった。でも妹のほうを評価されたと思いこんだわたしはそっと戻って、布団をかぶった。あとでわたしのことも褒めたかもしれなかったがショックは大きく、その思い込みから自由になれるまで、かなりの年月を要した。

わが家は曾祖父の代から建築業をやっていたが、田畑もあったので自家用の米・麦・野菜を栽培しており、大量の稲わらと麦わらが作業場の2階に蓄えてあった。その日に炊く分を運んで来ては、竈にくべていた。小学高学年になると、ご飯を炊く前に竈の灰の始末をして、丸太の切り落としに腰掛けて母と焚口の前に並んだ。

火の番をするのは楽しかった。火のつけ方や上手な燃やし方は、祖母や母に教わった。表情豊かにメラメラと燃え盛る炎は美しく、一炊の時間も長くは感じなかった。冬の朝どんなに寒くても、ご飯が炊きあがるころには体の芯から温まっていたものだ。炊事場の天井には煙抜き用の越し屋根があり、煙突からは火の粉が飛ぶこともあって、当時は火事がけっこう多かった。

中学生になった昭和37年頃、わが家の五右衛門風呂は石炭風呂になり、石油コンロや電気釜が登場したので、竈は出番がなくなった。母の労力は減ったが、竈の前の楽しみも奪われた。竈はたちまち時代遅れの無用の長物となったが、それが生活の向上であり、発展ということなのだろう。

今さら竈や藁(わら)の時代に戻ることはできない。時代と共に他の物にとって代わり、廃れてしまうものがあるのは当然だ。そのぶん家事労働は劇的に改善されたのだから。60年以上も前の思い出など感傷にすぎず、今となっては幻想的ですらある。数日前の夢にひさびさに父母が登場したので、竈の記憶がふと甦ったのだ。

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