小さな図書室
◆ふたりの娘がまだ小さかったころ、福岡市東区に住んでいた。区には一つだけ市民図書館があったが、私たちの住んでいる場所からは遠く、車で行かない限り利用できなかった。仕事をしていたこともあり、夏休みでも娘たちをいつも図書館へ連れていくことなど出来なかった。「どうして図書館の近くに住んでいないの?」と娘に非難がましく言われたとき、返事に窮した。共働きの身には図書館はありがたい存在だったのに、うかつだった。
私が小学校へ入学したのは昭和31年。木造2階建ての大きな校舎の玄関を入ると左手に職員室、正面には間口の広い大きな階段があって、なぜか1、2年生はその階段を上ることを禁じられていた。2年生になって2階に図書室があることを知った。低学年に図書室の利用は無理ということだったのだろう。それが昭和30年代初めの、田舎の小学生の現実だった。
2年生のある日、先生が図書室の話をされた。本棚にたくさん本が並んでいる光景を想像して、胸が高鳴った。3年生まで待てない気持だった。放課後、誰もいないとき図書室への階段を1段上がり、すぐに下りた。2段上がって下り、3段、4段と繰り返し、5段目から廊下に飛び降りたときドシンと大きな音がして、何ごとかと職員室から偶然、担任の先生が出てこられた。
「上がってはいけないと言われてるでしょう?」と先生から咎められた。どうしても図書室を見てみたかったと、わたしは言い訳した。でも決まりだからと先生は少し考えて、わたしを待たせて階段を上がり、『フランダースの犬』を図書室から借りてきて、手渡された。初めて手にした「本」だった。
一目散に帰り、ランドセルも投げ出して、畳に腹這いになって一気に読んだ。終わりの方は悲しくて泣けて泣けて仕方がなかった。その方法で2年生が終わるまでの間、先生から本を借りては読むことが出来た。3年生になって図書室へ自由に行けるようになったときの感激は、いまも忘れられない。
図書室へ通って、1学期中にこの棚、2学期にこの棚、3学期はここと本棚ごとに全部読んでしまう計画を立てて、読みまくった。家の手伝いは決められたものがあったが、テレビも塾もゲームもない時代。時間はいくらでもあるのに、どっこい夜の読書はできなかった。祖母が無駄だとばかりに家の電灯を消しまくる。家で本を読むのは喜ばれなかった。
というのもわが家は曾祖父が宮大工で、長男である祖父も父も大工の棟梁だった。文学などには縁のない家業のわが家には、童話など図書館にあるような本は1冊も無かったのである。本や図書館への強い憧れは、家に本が無いという、その反動だったように思う。
小学校のあの小さな図書室以来、中学校でも高校でも、本を読みまくった。しかしその読書は文学に偏ってしまい、中学生の時に太宰治や芥川龍之介や北村透谷など、自殺した作家のものを読み過ぎて、すっかり厭世観に囚われてしまった。自分も嫌、親も嫌、社会も嫌と、真っ暗闇の世界にはまりこんでしまった。
高校生になって何とか暗闇から脱したいと真剣に思い、読書の方針を変えた。日本文学はキッパリ止めて、世界文学を読み始めた。ロマン・ロランやトーマス・マン、トルストイ、ヘッセ等々。どれも面白くて前向きな力強さに溢れていて、3年間でどうやら明るい方へ脱出することが出来た。日本文学を再び読むようになったのは、大人になってからである。
あれほど好きだった図書館だったが、歩いて行ける距離にないという理由でいまは疎遠になっている。必要な本はネットで注文すれば家に届くので、便利な反面、本がどんどんたまっていくのが悩みの種。古本屋に時々まとめて売っているが追いつかない。身近に持ち寄りできる小さな図書室があれば、喜んで寄贈するのだけれど……。
♪ 管理者ウェブサイト 「杉山武子の文学夢歌道」
私が小学校へ入学したのは昭和31年。木造2階建ての大きな校舎の玄関を入ると左手に職員室、正面には間口の広い大きな階段があって、なぜか1、2年生はその階段を上ることを禁じられていた。2年生になって2階に図書室があることを知った。低学年に図書室の利用は無理ということだったのだろう。それが昭和30年代初めの、田舎の小学生の現実だった。
2年生のある日、先生が図書室の話をされた。本棚にたくさん本が並んでいる光景を想像して、胸が高鳴った。3年生まで待てない気持だった。放課後、誰もいないとき図書室への階段を1段上がり、すぐに下りた。2段上がって下り、3段、4段と繰り返し、5段目から廊下に飛び降りたときドシンと大きな音がして、何ごとかと職員室から偶然、担任の先生が出てこられた。
「上がってはいけないと言われてるでしょう?」と先生から咎められた。どうしても図書室を見てみたかったと、わたしは言い訳した。でも決まりだからと先生は少し考えて、わたしを待たせて階段を上がり、『フランダースの犬』を図書室から借りてきて、手渡された。初めて手にした「本」だった。
一目散に帰り、ランドセルも投げ出して、畳に腹這いになって一気に読んだ。終わりの方は悲しくて泣けて泣けて仕方がなかった。その方法で2年生が終わるまでの間、先生から本を借りては読むことが出来た。3年生になって図書室へ自由に行けるようになったときの感激は、いまも忘れられない。
図書室へ通って、1学期中にこの棚、2学期にこの棚、3学期はここと本棚ごとに全部読んでしまう計画を立てて、読みまくった。家の手伝いは決められたものがあったが、テレビも塾もゲームもない時代。時間はいくらでもあるのに、どっこい夜の読書はできなかった。祖母が無駄だとばかりに家の電灯を消しまくる。家で本を読むのは喜ばれなかった。
というのもわが家は曾祖父が宮大工で、長男である祖父も父も大工の棟梁だった。文学などには縁のない家業のわが家には、童話など図書館にあるような本は1冊も無かったのである。本や図書館への強い憧れは、家に本が無いという、その反動だったように思う。
小学校のあの小さな図書室以来、中学校でも高校でも、本を読みまくった。しかしその読書は文学に偏ってしまい、中学生の時に太宰治や芥川龍之介や北村透谷など、自殺した作家のものを読み過ぎて、すっかり厭世観に囚われてしまった。自分も嫌、親も嫌、社会も嫌と、真っ暗闇の世界にはまりこんでしまった。
高校生になって何とか暗闇から脱したいと真剣に思い、読書の方針を変えた。日本文学はキッパリ止めて、世界文学を読み始めた。ロマン・ロランやトーマス・マン、トルストイ、ヘッセ等々。どれも面白くて前向きな力強さに溢れていて、3年間でどうやら明るい方へ脱出することが出来た。日本文学を再び読むようになったのは、大人になってからである。
あれほど好きだった図書館だったが、歩いて行ける距離にないという理由でいまは疎遠になっている。必要な本はネットで注文すれば家に届くので、便利な反面、本がどんどんたまっていくのが悩みの種。古本屋に時々まとめて売っているが追いつかない。身近に持ち寄りできる小さな図書室があれば、喜んで寄贈するのだけれど……。
♪ 管理者ウェブサイト 「杉山武子の文学夢歌道」
"小さな図書室" へのコメントを書く