楽は苦の種?

私が社会人になって間もないころだから、もう35年以上も前のことになる。当時定年間近の上司から、こんなことを聞かれた。「あなたは苦労ということをどう思いますか。したほうがいいのか、悪いのか、ぼくはこのトシになってもまだ言い切れないんですよ」と。そのときまだ20代半ばの私は、世間でいう苦労の真っ最中だったが、どう返事したのか覚えていない。

私は子どもの頃、同居していた祖母から「人間は苦労せんといかん。偉うなった人は若いころにみな苦労した人たちだ」といつも聞かされて育った。ところが私の母は、苦労はできればしないほうがいいと、祖母とは別の考えを私に吹き込んだ。一体どっちなのよと私なりに考えていたので、上司の問いかけがずっと私の記憶に刻まれることになった。

一般的に、苦労した人ほど、わが子には自分のような苦労はさせたくないと、先回りして子の苦労を取り除こうとする。苦労にもいろいろあるが、例えば経済的に苦労した人が成功し、自分の子には金銭的苦労をさせずに育てても、その子がのちのちまで順風満帆の人生を送るとは限らない。親子でモノは引き継げても、苦労という固有の経験は1回きりの生涯の中に畳み込まれる。

「楽は苦の種、苦は楽の種」という諺(ことわざ)がある。私は若いころそれをイソップ寓話の「アリとキリギリス」のように、戒めの言葉と受け止めていた。ところがトシを重ねるにつれ、励ましの言葉なのだと納得できるようになった。楽なときにも有頂天にならず、苦境でも絶望しない。なぜなら人生はその繰り返しとわかったから。しかも他人には苦労に見えても、本人はそう感じていないこともある。何が苦で何が楽かは簡単に決めつけられない。

かのシェークスピアは「世の中には福も禍もない。ただ、考え方でどうにでもなるものだ」と言っている。またロシアの作家フリーチェは「人生は学校である。そこでは幸福より不幸のほうがよい教師である」とも言っている。この2人の言葉には、マイナスをプラスに転換する柔軟な発想力があり、それが生きる力になることを教えているように思う。

人はだれしも幸福を望むものだ。しかし幸福を手に入れたと思っても、それが永劫に続く保証書などどこにもない。幸福の一寸先は闇かもしれないし、幸福の絶頂が不幸の始まりになることだってあり得る。人生は山あり谷あり、苦と楽はセットになっているよと教えられ、そう承知しているほうが人生をずっと楽に生きられる。早まって死んではいけないと思うのだ。

私が40歳になって不動産販売会社に入社したときは、80年代の終わりだった。バブル最盛期のころ入社した社員たちは、カウンターにいるだけでマンションや一戸建てがバンバン売れたので、本当の営業力がついてなかった。バブルが弾けたあとの新入社員は、最初から外回りの営業を始めたので、半年後には数年先輩の社員に勝るほど、営業力をつけてきた現実をみた。

そんな身近な経験からも、人間を鍛えるのは楽な時代より苦の時代なのだと、つくづく思う。苦楽も禍福も、その人の置かれた時代や環境と無縁ではない。万事楽で便利な世の中に育った現代人ではあるけれど、人間は本来、苦境に強いものだと思う。その場が与えられなかっただけで、日本中に苦のムードが漂っているからこそ、いまは自分を鍛えるよい時代なのではないだろうか。

 ♪ 管理者ウェブサイト「杉山武子の文学夢街道」 

"楽は苦の種?" へのコメントを書く

お名前[必須入力]
ホームページアドレス
コメント[必須入力]