かの国を想う

わたしは1971年から1990年までの20年間、福岡市内のある国立大学に勤めたことがあり、その大部分をある研究室で過ごした。そのうちの75年から85年ころまでは韓国(大韓民国)からの留学生が多くいて、修士課程や博士課程に在籍していた。韓国はまだ軍政下にあり、民主化される前のことである。

留学生は学問をしに日本に来ている。勉強は先生方に任せるとしても、こと生活面になると異国での生活には文化や生活習慣の違いがあって、日々困りごとが生じてくる。事務職の私は彼らの生活面での相談にのったり、時には家族ぐるみで遠足などに出かけていた。いまでも元留学生が来日すれば一緒にお酒を飲むし、むかし同様に交流している。

当時、ある留学生が日本で驚いたことの1つにあげたのは、日本では飲み屋で客同士がケンカしないことだ、と言った。かの国ではお酒が入ってくると、知らない同士でケンカになることがよくあるという。朝鮮半島には古くは高句麗・百済・新羅などの国があって、滅ぼしたり滅ぼされたりの因縁が今に続いているような話だった。

たとえば国内を旅する時に、自分の出身地ではない地域を通るときには緊張するし、おとなしく通り過ぎると言った。彼はソウル出身、つまりむかしの高句麗なので、朝鮮半島の南半分に位置した新羅や百済あたりを旅するときは出自を明かさないと。でも千年以上たっているし人々は移動するので冗談かもしれず、それを聞きそびれているうちに彼は学業を終えて帰国した。

またある人は、自分は政治家には絶対ならないと言った。血族の中で誰かが大統領になると、その権限は絶大なので親類縁者はみな良い職にありつける反面、失脚すると全部共倒れで路頭に迷う。そんな実例を何度も目の当たりにしてきたという。この伝統(?)は、現在でも続いているようにわたしには思える。

そんな留学生たちも20年経ったころには立派になっていて、大学などで高い地位を得ていた。15年ほど前に韓国に行く機会があり、ソウルから江原道の春川(チュンチョン)市、全羅北道の全州(チョンジュ)市など、元留学生たちと各地で再会しながら旅したことがあった。特に印象的だったのは、韓流ドラマ「冬のソナタ」のロケ地で有名になった春川に行った時のこと。

車でいろんなところへ案内してくれたが、途中、右手に高い塀が延々と続く道を走った。地図を見てもその部分は空白になっていて、きけば、在韓米軍基地だという。どうりで周辺はひっそりと陰気な感じだった。春川は北朝鮮との軍事境界線まで、約30キロメートルしか離れてないということだった。

韓国には兵役があるので、市内でも若い兵隊さんたちを数多く見かけた。また各都市では北朝鮮の空爆を想定して、民間防衛訓練が定期的に行われているとは当時の話だったが、いまはどうなのだろう。1950年から3年間続いた朝鮮戦争のとき、春川市内を流れる川には何千という戦死者が上流(北朝鮮)から流れて来て、川は血で真っ赤に染まったそうだ。知人は両親や祖父母からその話を聞いて育ったといい、北朝鮮に対する不信感が強かった。

日本でいう「朝鮮戦争」は、韓国では「韓国戦争」と呼ぶそうだ。韓国戦争は私の生まれたころの昔の戦争と思っていたが、そうではなかった。38度線で南北に分断された韓国と北朝鮮の間では、まだ戦争は終結しておらず、軍事境界線をはさんで北朝鮮と連合軍は「休戦中」の状態だということを、そのときに教えてもらった。

韓国で買った地図には北朝鮮との国境線などは何もなく、国道や地名などは北までひと続きに「大韓民国全図」となっていた。かつて「ベルリンの壁」が無くなった時、わたしは南北朝鮮の統一も非現実的な話ではないと思った。過去に殺し合いをして2つの国に分裂したとはいえ、同じ民族ゆえに統一願望には激しいものを感じるが、最近のかの国の動きには不安のほうが先立ってくる。統一を願いつつも北朝鮮を信用できないと言った元留学生たちは、いまどんな思いでいるのだろうか。訊いてみたい気がしている。

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夏の終わりに

ことしの夏も終わろうとしている。名残惜しい気持ちはいっぱいあるが、京都アニメの放火事件をはじめ、信じがたい悲惨な事件や事故や災害が相次いだ夏でもあった。一見平凡な生活の中にも「一寸先は闇」の諺のように、常に危険と隣り合わせの日常であることを思い知らされもした。

わたし事で言えば、8月6日から予定していた5泊6日の旅が、ちょうど出発の日に九州北部地方を襲った台風8号とかち合って、なんとキャンセルになった。仕方がないので博多に住む娘夫婦と孫に会って、一緒に遊んで食事して、短い旅を終えた。

おまけに隣国との関係にも暗雲が立ち込めていて、日々何かしら心が落ち着かず、気持ちが晴れることはない。そんな中、久々の明るい話題になったのは、プロゴルファーの渋野日向子さんが、初出場で全英女子オープンを制覇したニュースだった。

わたしはゴルフに無縁で、ルールも知らない。ただ、ボールを遠くへ飛ばし、最終的に番号の付いたホールという穴にボールが入れば良く、外れれば残念、という程度の知識だ。長いクラブをビュッと振る時の音、ボールが穴に入った時のコロンという音が、何とも気持ちいい。

渋野さんは日本人としては1977年の岡本綾子さん以来、42年ぶりに史上2人目のメジャーチャンピオンになったそうだ。彼女のトレードマークの笑顔が、人々の心を明るくしてくれたように思う。テレビで他の選手も見たが、笑顔どころか厳しい表情の選手が多かった。

渋野さんはプロになってまだ1年足らず。試合中にうまくいかないとムカついたりイラついたりで表情がきつかったそうだ。それを見た彼女のお父さんから「そんな顔をしていたんじゃ、見ているお客さんが不快になる。もっと笑顔でいなさい」と注意され、それ以来、笑顔を心がけるようになったという。

スポーツ選手に限らず芸能人などは笑顔がウリかもしれないが、どんな人でも自然な柔らかい笑顔はその人を一層美しく見せるし、相手や周りの人の気持ちを明るくしてくれる。そうと分かってはいても、いつも笑顔でいることは案外難しいものだ。

そういえば以前、ある医師から笑いの効用について話を聞いた事があった。「笑いは百薬の長」という諺は、最近になって医学的、脳神経学的にも実証されてきたそうだ。笑うのは幸福だからではなく、笑うからこそ幸福なのだという。笑いが心を癒し、身体の治癒力を高め、人間を素直にさせるという。

こんなこともメモしていた。
・笑顔を作れば心はついてくる=性格は表情に表われる。
・笑顔のきれいな人は、周りを明るくする。
・笑顔のポイントは目=1日3回笑って、3回鏡を見よう。
・笑うと若くなる。
・老けて見える人は=笑顔が無い人、声が沈んでいる人、姿勢が前屈みの人

最近の研究によれば、笑いはストレスを減らし、免疫力を高めるから癌の発生率を抑えるそうだ。笑いはお金も設備もいらない。逆に言えば、笑いを忘れた人間が争いを好むのではないだろうか。1日3回大声で笑って、3回鏡を見て自分の笑顔に見とれよう。

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夏空と桜島

梅雨明け宣言以後も、数日にわたって土砂降りの雨が断続的に続いていた鹿児島市内。きょうはやっと本格的な夏空となりました。
sakurajima1.JPG16時53分自宅より撮影
もこもこと薄茶色の噴煙を上げる桜島。山頂あたりの茶色のが噴煙で、風に乗って左側(北側)に流れています。右手の筋雲は飛行機雲の痕跡です。

skurajima2.JPG同上
ベールのような縦の筋は飛行機の通った跡。桜島の左手の方角に鹿児島空港があります。

ブログを書いているあいだの17時25分に大きな噴火があり、火口から3,800メートルの高さまで噴煙があがったそうです。
気付かずにいたので残念に思っていた所、約30分後の17時54分に再び噴火が起きたと、家族が知らせてくれました。
sakurajima5.JPG17時56分撮影

噴煙がどんどん上昇しています。火口から3,500メートルまで上がったようです。
山頂全体に横たわる茶色い噴煙は、30分前に噴火した際のものと思われます。
sakurajima6.JPG17時57分撮影

sakurajima7.JPG17時58分撮影

時間が経つにつれ噴煙は風に押し流され、風下では火山灰が降り注ぎます。
sakurajima8.JPG18時02分撮影

噴火から約1時間後の様子。火山灰が風下の街や農地を襲っています。
火山灰は砂状で重く、道路に積もると自転車やバイクは滑りやすくなり、危ないです。家の窓も開けられません。
sakurajima9.JPG18時52分撮影

追記:
翌日の南日本新聞の記事。火山灰が空港周辺にも降ったようです。降灰後に飛行機が離陸しようとすると、砂塵が舞って飛び立てず、その結果、多数の便が欠航に。夜を徹して滑走路の灰を取り除く作業が行われたそうです。
kiji2 (2).jpg 2019年7月29日付 南日本新聞より

きょう7月30日の朝刊によりますと、欠航になったため多くの人が鹿児島市内に戻り、空港ロビーで夜明かしした人は140名にのぼったそうです。

見る・見えない 音の世界

たとえば履歴書などに「趣味」を書く欄があると、わたしはたいてい「音楽鑑賞、映画鑑賞、旅行」と書く。音楽ならば何でも聴くが、ど演歌はちょっと苦手だ。Jポップは好きな曲が多いし、カラオケでもよく歌う。アニメのテーマソングや男声・女声のコーラスを聴くのも好きだ。

ピアニストやヴァイオリニストには好きな演奏者がいて、時には無理して遠くまでコンサートに足を運ぶこともあるが、ユーチューブだと自宅で楽しめるので、家事を終えた夜のひとときがわたしのクラシック音楽の時間。最近はまっているのは、ピアニスト辻井伸行さんの演奏を聴くこと。

辻井さんは2009年、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの優勝で一躍注目を集めた人で、全盲のピアニストとして知られる。その後、リサイタル公演や著名な指揮者やオーケストラとの共演、また室内楽にも活動の場を広げている。

辻井さんは生まれた時から目が見えないが、その分、人並み外れた聴覚の持ち主であるといい、2歳のときすでに母親の歌声に合わせてオモチャのピアノを弾く姿がユーチューブにアップされている。神様は辻井さんから光を奪ったかわりに、ずば抜けた聴音力を与えられたらしい。

辻井さんのピアノのレッスンは、先生が左手の楽譜の数小節を弾いて聞かせ、それを辻井さんは即座に左手で再現し、次に右手の楽譜の部分も一度聴いただけで再現。左右を別々に練習して覚え、両手を合わせて完成させるという練習方法だったようだ。

子供時代の辻井さんを指導した先生の話では、不協和音を含む6~7個の和音をピアノで同時に鳴らしても、辻井さんは全部の音を聞き分けて即座に正確に弾くことができたという。点字の楽譜でも勉強するがその方法は時間がかかるので、まず音を耳で聴いて曲を覚えるのだという。

音楽には楽譜があり、人はそれを見て覚え、それぞれの楽器の音を鳴らしたり声を出して曲を表現する。オーケストラのメンバーは楽譜を見ながら演奏するが、ソリストともなれば数分で弾き終わる小曲から30分以上かかるような協奏曲まで、楽譜を全部暗譜しなければならない。

楽譜は五線紙に音符という記号が書かれた2次元の世界だという。作曲家が着想して創り上げた豊かな音楽世界を音符に置き換え、さらに強弱や短調・長調の違い、長くのばしたり速くしたりの指示記号を楽譜に記して曲を創る。演奏者は譜面に忠実に、作曲者の意図なりを解釈して演奏する。

目が見える人の場合、楽譜から得た情報を元にして音に置き換えてゆく。ところが辻井さんは楽譜を介さず耳から音の世界に入る。ある作曲家は辻井さんについて、通常とは全く違う方法で音の世界と直接つながることができるのではないか、と語っていた。

ネットには、盲目を売りにしているなど妬みとも取れる書き込みもあるが、いろんなピアニストと聴き比べて思うのは、辻井さんの演奏は音の1つ1つが際立ちキラキラしていて、その音色の美しさに惹き込まれること。また半端ない集中力から発される音の世界に圧倒されるのも、魅力の1つだと思っている。生演奏を聴ける日を楽しみにしている。

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甲突川でカヤックの練習

今朝の鹿児島市内は曇りで、台風通過の影響でまだ少し風が残っていましたが、川の方から元気な掛け声が聞こえてきました。ベランダに出てみると、小学生(たぶん)たちのカヤックの列が左手の上流へ向かって進んでいました。4~5艇につき大人のカヤック1艇が付き添っているように見えました。
kayakku5.JPG   午前8時29分撮影 

カヤック1.JPG  同上    

ちょうど満潮の時間帯でもあったようで川の流れはほとんどなく、練習には最適だったのでしょう。ふだんは近くの小学校のプールでカヤックの練習をしているのを見た事があります。ある程度上達したら、川の流れや水量などの条件が整った時に、練習が行われるようです。30分ほどして、また下ってきました。

カヤック2.JPG    午前9時07分撮影

kkayakku 3.JPG   同上

桜島の見える下流に向かって、上りよりはやや早く進んでいきました。川幅はあまり広くなく、水深も大人の腰や胸あたり程度です。川沿いの道には救護班のような男性、また保護者らしい人たちがカヤックに合わせて見守るように歩いていました。

カヤック4.JPG    午前9時8分撮影


文化冊子「草茫々通信」13号 発行


佐賀市から発行されている文化冊子「草茫々通信」13号が出ました。

 今回の特集は 「映画よ、文学はあなたに嫉妬する」です。
 過去から現在までのさまざまな映画を取り上げ、その魅力と見どころを紹介。
 わたしもイギリス映画「モーリス」について書いています。

 kusaboubou13のコピー (2).jpg
     表紙(目次)

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     裏表紙(あとがき)

  「草茫々通信」13号は1冊700円+税
 ※購入ご希望の方は八田(ヤツダ)さんまで
   電話:0952-31-1608 

 2019年6月20日発行(創刊2010年6月)
 発行:八田千恵子



小学生時代

わたしの祖父母は明治生まれ、父母は大正生まれで、わたしたち3姉妹は戦後の昭和に生まれた。昭和は戦前戦後合わせて64年間と長かった。続く平成は31年目の4月まで、そして令和の世となり、団塊世代のわたしは昭和・平成・令和という3つの時代を生きている。

大正時代に軍国少年・少女として育った親たちの世代は兵役や空襲や食糧難を経験したが、自分たちの子どもたちは幸いなことに、もう戦争をしませんと世界に向かって宣言した憲法の下で育つことに、心から安堵したのではないだろうか。そして平成は戦争のない時代だった。だからわたしたちはいい時代に生まれたのかもしれない。

ただ今後は孫たちがどんな時代に生きるのかと考えると、戦乱という事態はないだろうと楽天的に思うものの、グローバルな世の中となったことのメリットとデメリットの問題に晒されるのだろうかと、不安もぬぐえない。

わからないことを心配しても時間の無駄。それよりもだんだんと薄れつつある自分の小学生時代のことをいまのうちの思い出したいと思った。個々人の記憶はその人の死とともに消え失せてしまうから、何の価値も無いと言われようが記憶を絵にしたり文章にして残すことは、その人が確かに生きていたという証しになるのではないだろうか。

昭和31年4月に小学生になったが、入学式のことは記憶にない。初めて教室に入ったとき、白やピンクや青のチョークで黒板いっぱいに「にゅうがくおめでとう」と書いてあった一場面だけは覚えている。担任は若い女の先生だった。靴を履いて来ない男子が一人だけいたが、まだ戦後復興の途上であり、全体的に貧しい時代だった。

2年生のときに初めて幻灯というものを見た。暗幕のある教室に移動し、先生が幻灯機にスイッチを入れて白い布にボーっと景色が映ったとき、みんな興奮して大喜びだった。音など出ないしモノクロだったように思う。熱中していると無情にも小使いさん(のちに用務員さん)がカランカランと終業の鐘を鳴らしながら廊下を歩くのだった。

3年生になると、木造の階段を上がった2階の図書室で本を読めるようになった。(2年生までは禁止という田舎の小学校だった)大きな部屋の本棚には少年少女文学全集や伝記シリーズが並んでいた。エジソン、ファーブル、リンカーン、ヘレン・ケラー、野口英世、勝海舟、ああ無情、小公子、小公女、赤毛のアン、クオレ等々、夢中で読んだ。

4年生のときに東京タワーが完成したと雑誌で知った。皇太子の結婚式の日、テレビのあった近所の農機具屋さんに大勢の大人や子供たちが集まってパレードの様子を見た。年末には紅白歌合戦を見るためわが家にもテレビが来た。チャンネルはNHKのほかに2つほど。最初に丸いものが映って、当時は朝に少しと夕方に数時間だけの放送だった。

5年生ともなれば好きな教科と苦手な教科がはっきりしてきた。国語、社会、音楽、図画工作は好きで、算数、理科、体育はあまり好きではなかった。社会の時間に先生が、「貧乏人は麦を喰え」と言った池田勇人が総理大臣になり「所得倍増計画」を打ち出した、と教えてくれた。日本は高度経済成長期に突入していたのだった。

6年生も5年生に続いて器楽クラブに入った。担任の男先生が指揮をされ、女先生はピアノ伴奏。課題曲は「ハンガリー舞曲第5番」。わたしは1台しかないマリンバに憧れたが、その他大勢のたて笛になった。コンクールは久留米市であり、楽器の豊富な街の学校が優勝した。帰りの電車で男先生が悔し泣きされるのを、みんなで慰めながら帰った。

大雨の降る窓の外を眺めながらそんなことを思い出し、60年前は小学3年生だったのかと、長かったような早かったような年月を思い起こして、大病もせず大ケガもせずいまに至るまで生きていることに、何か大きなものに見守られてきたような有難さを感じている。

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