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一樹の蔭、一河の流れ

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一樹の蔭、一河の流れ
ブログ紹介
文芸サイト「文学夢街道」管理人の杉山武子です。
実りある60代をめざして、読書・映画・旅行など日々の活動から思うこと感じることを書いて、月に2回、水曜日にアップしています。
ブログ名は平家物語の「一樹の蔭に宿るも前世の契り浅からず、同じ流れにむすぶも他生の縁なほ深し」に由来しています。
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 ウラジオストク訪問記

2018/11/14 01:16
ことしの真夏の旅は、めったに行くチャンスのない北方へ足を延ばした。目的地の1つは、ロシアのウラジオストク。もちろん初めての訪問だ。ウラジオストクの正確な名前はウラジ=ヴォストークで、ロシア語で「東方を征服せよ」を意味するという、野心満々の極東の港湾都市だ。

日本海をはさんで日本の対岸にあるウラジオストクは、第2次世界大戦の前は多くの外国人が暮らす国際都市だったといい、日本人も最盛期には6千人ほどが住んでいたという。

ウラジオストクの地図を見ると、確かに湾岸の中心部に、旧松田銀行部、旧日本人小学校、旧日本領事館、浦潮(ウラジオ)本願寺跡などの表記がある。わたしはツアーバスで教会巡りをしたので、残念ながらかつての日本人街の名残りを歩いて回る時間は無かった。

ソ連の太平洋艦隊が司令部を置く軍事都市だったウラジオストクは、第2次世界大戦後は東西冷戦が続いたため、国民ですら出入りが厳しく制限された閉鎖都市だったという。またソ連崩壊後の混乱期には、マフィアがはびこる暗い街だったそうだ。

その当時から比べると、現在のウラジオストクは日本からの気軽な海外旅行先として人気急上昇中という。なぜなら日本から最も近いヨーロッパだから、ということらしい。確かに町並みや建物に西洋を思わせるものが多かった。

一番驚いたのは、街を走る乗用車の9割くらいは日本車だったこと。各メーカーが揃い、日本で見慣れた車ばかりだ。ソ連崩壊後に大量の中古日本車や食料品などが持ち込まれたという。日本の港から定期航路で運ばれて来たのだろう。

高台にある展望台に行ったら、港に軍艦が並んでいる様子や湾を横断する橋や街並みが一望できて、よい眺めだった。日本車や日本製品が溢れ、人々は親日的ではあるけれど、ときには日露戦争で負けたことを根に持つ人もいます、とガイドさん。さもありなんと思った。

気になったのはバスだ。ツアーのバスはおんぼろで、空調は壊れ、天井の窓から吹き込む熱風に汗だく。日本製ではなかったがかなりの年代物。それは路線バスも同じで、蒸し暑い中、どれも窓を全開して走っていた。

歩道は穴ぼこや段差が多くて歩きにくいし、集合住宅の外壁にはエアコンの室外機が取り付けてあり、昭和の時代が思い出された。けれどいまに国際都市として発展していくだろうと、伸びしろを感じた街だった。

わたしの夢は、ウラジオストクからシベリア鉄道に乗り、モスクワ経由でサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館へ行くこと。さて、生きているうちに叶いますかどうか?!

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「 文学フリマ福岡に参加して」

2018/10/31 01:05
去る28日の日曜日、福岡市中央区の天神ビル11階で開催された「文学フリマ福岡」に予定通り出店しました。今回の会場には約120のブースが並びましたが、わたしのブースは入口からまっすぐ進んだ奥の窓際に指定されていて、割と目立つ場所でした。

午前11時の開場なので10時過ぎには会場に入り、開店準備。ブースといっても長机半分のスペースにパイプ椅子1脚があるだけ。1ブースに椅子は2つまで申し込めますが、わたしの場合は3回目の今回までずっとひとりでの出店です。鹿児島から行くので仕方ありません。

長机にあずき色の布を広げて、その上に持参した「農民文学」「小説春秋」「火の鳥」など機関誌や同人誌、そして3種類の拙著計20冊をを並べて、価格を表示。その他に農民文学について紹介するチラシを置き、つり銭も用意して、「農民文学」と縦書きにした紙を立てて看板にしました。
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いまや「農民」という言葉は死語に近いのですが、農業や農村などを題材にした詩・小説・評論などの作品が、戦前からこんにちまで営々と書き継がれています。これらの作品群は「農民文学」と呼ばれていて、農業従事者の作品も含まれています。

しかし最近は農業に直接かかわっていない会社員・先生・公務員・主婦など、多くの人が農にまつわるテーマで作品を書いています。これらの作品発表の受け皿として「農民文学」という雑誌があり、商業的な文壇とは少し違うところで生まれた真摯な作品が掲載されています。
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わたしの横のブースは、一昨年この「文学フリマ」に初めて出店したとき来場者として本を買っていただいた方でした。それ以来親しくなって前回から出店されるようになり、俳句や児童文学の雑誌を並べておられる70代の元気な女性です。

通路をはさんで向かい側のブースは、漫画やライトノベルや短歌などの本や冊子が並び、各ブースには若い人たちが4〜5人いて賑やかです。交代で店番をしたり会場を歩き回って本の宣伝をしたり、ブックスタンドや棚などを使って、立体的に作品を展示しています。
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「文学フリマ」には自費出版の詩集や小説、同人雑誌、句集や歌集、また漫画・コミックなどの同人誌やTシャツなど、多彩なものが出品されています。出店者も高校や大学の文芸部員から高齢者まで年代層もさまざまで、出版社も出店しています。
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わたしのブースにもいろんな方が足を止めていただき、農民文学のチラシを渡したり、雑誌の説明をしたり、来場者との交流も楽しいものでした。午後4時の閉場までに同人誌1冊と自著1冊を残して、あとは全部売れました。

「昨年これ、買いましたよ。面白かった」と来場者から声を掛けられたり、「この本、気になります」と女子大生に買ってもらったり、ことし買われた方がブログにコメントを書き込まれるなど新しい出会いもあって、出店して良かったと思った事でした。

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35年後の答え

2018/10/15 20:20
平日午後に仕事をするようになってから、家事や義母の生活支援などのルーチンワークは、午前中にさっさと済ませる習慣がついた。忙中閑ありというとおり、なぜか映画を観に行く時間までひねり出せるようになって、土曜日に映画館に行った。

観たのは韓国映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」。これは1980年に韓国全羅南道光州市で実際に起こった、光州事件を題材にしたもの。主人公のタクシー運転手と、彼を雇ってソウルから戒厳令下の光州市へ取材に行くドイツ人記者との実話を元にしている。

光州事件の背景には、前年の1979年10月29日、朴正熙がKCIA部長に射殺されて18年間の独裁政治が終り、「穏やかな民主化」への流れがあった。ところが全斗煥国軍保安司令官らがクーデターで軍の実権を掌握し、金大中らを逮捕。全国各地で反軍部民主化要求の街頭デモが続いていた。

光州事件は1980年5月18日から27日に、光州市の市民・学生たちがデモから始まって、武器を取り、戒厳軍と対決して多くの死傷者を出した事件だ。この事件は当初、軍や政府側から光州暴動などと呼ばれていたのが、現在では光州は、民主化運動の聖地とされているそうだ。

当時、日本では事件の現場映像を入手して東京に持ち出し、ニュースとして最初に流したのはTBS外信部だったらしい。次いで毎日新聞はじめ各社が報じるなど、日本ではいち早く知られた大事件だった。

わたしもテレビや新聞で、鎖でつながれ連行される学生や、血みどろの市民の姿をただならぬ思いで見ていた。映画に出て来るドイツ人記者は当時日本駐在特派員で、日本の記事を見て急遽、光州を目指す。映画ではその道中や軍と市民の銃撃戦などが、リアルに再現されていた。

事件そのものが重苦しいためか、タクシー運転手は明るい普通のおじさんというキャラクターで笑わせる。庶民の生活も描かれていて、この先に起こる、丸腰の市民や学生を軍が容赦なく襲い銃撃する展開を、しばし忘れさせてくれた。

光州事件当時、わたしは福岡市内の国立大学で働いていた。1970年代後半から80年代前半ころ、研究室には韓国からの留学生が割と多かった。研究以外のことで世話をする機会の多かったわたしは、日本語の堪能な彼らと、いろんな話をしていた。

事件から3年ほどして、わたしと同世代の韓国人留学生Kさんに、ある日何気なく光州事件のひどさを話した。ところがふだん穏やかなKさんは顔色を変えて「そんなはずはない」と全否定。映像や写真で見たと言っても信じてもらえず、その話はそれきりになった。35年ほど前のことだ。

なぜKさんはあんなに怒ったのか、長い間気になっていたが、映画を観て答えが見つかった。当時の韓国内のテレビや新聞報道には検閲があって、不都合な真実は隠され、軍や政府の都合のいいように報道統制されていたのだ。かつて日本の戦時中もそうだった。また決して過去の話ではないと、映画を観ながら思ったことだった。

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「第4回 文学フリマ福岡」ご案内

2018/10/05 10:18
フリマとは、フリーマーケットの略で、「文学フリマ」はプロ・アマの垣根を越えた、文学作品の展示即売会のことです。毎年、全国各地の主要都市で開催されています。福岡市での開催はことし4回目となりますが、わたしは2回目から連続して出店しています。

主宰者の言葉を借りると、「文学フリマは既成の文壇や文芸誌の枠にとらわれず〈文学〉を発表できる「場」を提供すること、作り手や読者が直接コミュニケートできる「場」を作ることを目的としたイベント」です。今回は約120のブースが並びます。

日時は10月28日(日)11時から16時まで。場所は天神ビル(福岡市中央区天神2丁目12−1)11階の10号会議室です。一般の方の入場は無料。具体的には小説・随筆・詩歌・俳句・評論・戯曲・歴史・郷土史etc…、個人誌や同人誌、著書、CD、Tシャツなどが出品されます。

わたしは2つの同人誌に所属しているほか、「日本農民文学会」の会員でもありますから、会の機関誌「農民文学」のほかに、同人雑誌や自著を出品します。決められたブース(といっても、長机半分と椅子のみ)で、販売したり来場者と交流します。

同人誌「火の鳥」「小説春秋」のほか、機関誌「農民文学」、拙著の 『一葉 樋口夏子の肖像』『「矢山哲治と「こをろ」の時代」』『土着と反逆』を出品する予定です。お近くにお住まいの方、文学にご興味のある方はぜひご来場ください。何も買われなくても、見学だけでももちろん大丈夫です。

鹿児島から参加するので交通費が掛かりり、出店料も必要ですので、雑誌が多少売れても毎回赤字ですが、「農民文学」を看板にして認知度を高めたいと思って出店しています。今年のチラシには機関誌「農民文学」の写真が採用されていて、嬉しく思いました。会場においでの際は、声をお掛けください。お会い出来たら嬉しいです。
  
 ※画像をクリックすると拡大します。

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 【おしらせ】拙著『一葉 樋口夏子の肖像』第2版が、
       今月末に刊行予定です。初版は2006年でしたので、
       12年ぶりに再登場することになりました。
       内容は、樋口一葉の評伝です。よろしくお願い致します。

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18年ぶりの就職

2018/09/27 01:36
福岡県出身のわたしは長く福岡市に住み、独身時代からの仕事を、結婚しても出産しても辞めずに続けていた。しかし勤続30年を目前にして、家庭の事情で鹿児島へ転居することになり、わたしはあえなく失職した。

鹿児島での職探しは難航して、1年間ハローワークに通ったが、その時点で50歳を過ぎていたわたしに前職と同様の正社員の職はなかった。仕方なく当時としては時給の良かったパソコン・インストラクターのアルバイトをしたが、半年ぐらいでそれも終了。ついに専業主婦になった。

それから18年がたち、年金受給者となったわたしにことしの春、仕事の話が舞い込んできた。孫が4人に増え、母親になったふたりの娘たちは育児休暇があけて次々に職場復帰したので、何か事あれば県外の娘宅に駆けつける助っ人要員になろう、なんて考えていたところだった。

70歳を目前にして就職話が来るなんて想像もしていなかったが、とにかく久々に履歴書を書いて出した。1回目、2回目、3回目と、だんだん上の人との面接があって採用が決まり、8月から出勤している。なんと18年ぶりの就職だ。

とはいえ独居で高齢の姑宅へ週4回通って生活支援をしているので、フルタイムは無理というわたしの都合がある。先方(マスコミ関係)の条件は平日午後4時間のパート勤務。庶務的な仕事と簡単な経理、電話や来客の対応のほか、パソコンが使えて文章が書ける人、を探していたらしい。

どうやら双方の条件が合致して決まったようだ。市営バス利用で片道25分で会社に着くので、通勤は便利。炊事洗濯などの家事と姑の世話はチャチャッと午前中に済ませ、昼食のあと12時半過ぎに家を出る。13時前に会社に着いて、タイムカードをガチャッ。

実をいうと、わたしはいくつかの団体や同人誌に所属していて会費等の出費が必要。そのうえそれらに関連する用事で年に何度も上京するし、福岡の読書会にも奇数月に参加するので交通費が掛かる。自主的な活動なので当然、出費は自分持ちだ。

鹿児島では仕事が無かったので、それならとずっと自宅でできるテープ書き起こしの内職をしていた。仕事の委託先も自分で開拓した。講演会や研究集会の討論会、インタビューなどの音源を聴きながら、それをパソコンを使って忠実に文章に起こしていく。

しかし耳(音源)と目(パソコン画面)と手(キーボード入力)を同時に使うので、けっこうハードな作業になる。以前は1時間ぶっ通しやって、1日6時間でも平気だったが、最近は20分も作業すればどっと疲れ、1日3時間が限度。休み休みなので効率が悪く、そろそろ廃業を考えていた。

勤め出してから良くなったのは、生活にリズムができ、新しい人との出会いが増えたこと。毎日違う服を着るので、タンスの肥やしや靴の出番が増えたこと。毎日何かしら刺激があること。お給料があること。まだ働ける元気があることだ。仕事の神様、ありがとうございます。

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樋口一葉の人権意識

2018/09/12 00:27
20代の中頃から樋口一葉の日記を読むようになって40年余り。読み始めから20年かけて一葉関係の資料を集め続けて勉強し、20年ほど前に同人雑誌に一葉の評伝を2年半にわたり連載。それを1999年に私家版(非売品)として出版しました。

この私家版はいろんな好運にめぐまれ、2006年に「一葉 樋口夏子の肖像」のタイトルで績文堂より刊行され、本屋に並びました。いつか一葉の評伝を書こうと決めてから、30年が経っていました。誰かに書いてと頼まれたわけでもなく、書きますと誰かに約束した訳でもなかったからです。

明治5年に生まれた一葉は、14歳頃から24歳で亡くなるまで、克明な日記をつけています。それは日本が明治維新を経て近代化へと邁進していた、その渦中のことでした。日記のほかにも一葉は、日付のない感想や聞き書きなどの断章を数多く残しています。

その中に、注目すべき文章があります。女性の社会的地位など無いに等しかった明治時代に、一葉は社会に横たわる差別や偏見を厳しく、批判的に見つめています。明治27年秋から冬の間に書かれたもののようです。

 かれも人也(なり)馬車にて大路に豪奢をきそふ人あり
 これも人也 夕ぐれの門にゆきゝを招きて 情をうるの
 身あり かれを貴也といふしるべからず これを賤(いや)
 しといふしるべからず
 天地は私なし 萬物おのおの所に随(したが)ひておひ
 立ぬべきを 何物ぞはかなき階級を作りて貴賤といふ

 娼婦に誠あり 貴公子にしてこれをたばか(謀)らむハ
 罪ならずや 良家の夫人にしてつま(夫)を偽る人少か
 らぬに これをばうき世のならひとゆるして一人娼婦
 斗(ばかり)せめをうくるハ 何ゆゑのあやまりならん

 あはれこれをも甘じてうくれば うき世に賤しきものゝ
 そしりをうくるもむべなるかな


ゆっくり読んでいけば、一葉の言わんとしていることは伝わってくるのではないでしょうか。124年ほど前に書かれた文章ですが、今でも何とか読めるのは有難いことです。この文章から、一葉が真っ当な人権感覚を持っていたことが読み取れます。

本来平等であるべき人間社会に階級をつくり、娼婦を一方的に卑下し差別する社会に、一葉は強い抗議の声をあげています。遊郭に隣接する貧民街や風俗店の多い新開地で暮らした経験から、貧しさゆえに娼婦として苦界に生きる女性たちを救済する事業すら、一葉は考えていました。

長兄の病没に続き事業に失敗した父親にも死なれて、一葉は17歳で戸主となり、父の残した借金を返済しながら老いた母と妹を養わないといけない立場に立たされました。没落した家の娘となって、遊女と紙一重の境遇を実感した一葉は、彼女たちに無関心ではいられなかったのです。

小学校4年で学業を終えた一葉でしたが、歌塾「萩の舎」(はぎのや)で上流階級に接し、貧民街に生きる最下層の人々と交わる中で、人の一生が身分や貧富の差で定まることに怒りを覚えます。その人権意識が、やがて「たけくらべ」「にごりえ」などの名作を生む土壌となり、普遍的な内容を持つがゆえに現代まで読み継がれているのかもしれません。

  ※引用は『樋口一葉全集』 第三巻(下)より
     筑摩書房 昭和53年11月10日発行
    読みやすくするため濁点やふりがなを付けました。

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生きて来た日々

2018/08/29 10:28
わたしが子育て中だった20代から30 代ころは、子の年齢を数えてばかりいるうちに自分のトシのことは忘れて、「はて、37、いや38歳だっけ?」と、判然としないことがままあった。ふと気が付けばそれからさらに数十年が過ぎて、ついに前期高齢者に仕分けされてしまった。

ことしは春に高校卒業50周年の同窓会があり、実家のあるK市に行って出席。また先日のお盆には中学校の学年同窓会があり、こちらは本当に久しぶりに出席した。会えるかなと期待していた人の何人かは欠席だったが、それでも卒業以来50数年ぶりに会う人もいて、浦島太郎気分だった。

当時のクラスは8組まであり、計346名の卒業生のうち参加者は2割の70人。担任の先生で出席されたのは、81歳になられたという女性のN先生のみで、先生を囲んでの昔話に花が咲いた。すでに亡くなられた担任の先生方が多いという話だった。

同窓会の幹事さんたちは、卒業アルバムから参加者の顔写真をコピーして、現在の名前と旧姓を併記した名札を作り、首にかけるケースに入れたものを用意してくれていた。誰なのか分からなくても、名札の写真と名前を見れば即座に思い出せたので、いいアイディアだと思った。

会の冒頭で、亡くなった級友たちに黙とうをささげた。名簿には42名が逝去になっていて、名前を見るだけで中学時代の顔が浮かんできて切なくなった。連絡がつかず住所欄が空白の人の半数くらいは、亡くなっている可能性有りと世話人さん。卒業以来半世紀以上たっていることを実感させられた。

連絡はついたものの、車椅子なので外出が難しいとか、お酒が飲めない体になったとか、病気療養中などの理由で、欠席の連絡が多数あったそうだ。戦後生まれのわたしたちは今年満69歳。数え年だと70なので「古希」になるが、「古来稀なり」どころか平均寿命までまだ10年以上もある。

会社や役所勤めを辞めた後も、再就職して仕事を続けている人、いろんな団体でボランティアなどで活動している人もいた。同窓会に出ていつも思うのは、それまで紆余曲折いろいろな苦労があったにせよ、現在はそれなりに平穏に暮らしている人たちが来ているのだろうと。

小・中・高と一緒の学校へ行ったKさん(男性)とは50年ぶりに再会した。8年間病気療養中だった奥さんを3年前に亡くし、いまは一人暮らしとか。「子供さんは?」と問えば「いない」という返事。しまったと思ったが、今度は高校の同窓会で会いましょうと約束した。

小・中・高までは、みな似たような生活を送るが、そこから先は進学や就職にわかれ、結婚をしたりしなかったりと進路が千差万別に広がる。親は子に苦労させまいと願うが、実際は山あり谷あり。生きていくこと自体が苦労と背中合わせだし、またそれが自分の成長の糧にもなったというのが実感だ。

いまの自分というのは日々何かを決めたり、AかBかと選択してきた、その積み重ねの結果だ。選択した結果が失敗に終わっても時間は巻き戻しできないから、立ち直って先に進むしかない。一回きりの人生だから一生であって、二生はない。その潔さこそが、人生の醍醐味なのかもしれない。

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